例祭の大祭 例祭の大祭

例大祭は、祭りの核心といえるでしょう。毎年行われる諸祭祀のうち最も重要とされる日であり、厳粛な神事でもあります。田無神社の例大祭は、西東京市の歴史であり、文化であり、そして田無に住む人々の魂そのものであるともいえます。

伝統文化の継承は、まずお祭りを「見る」「参加する」ことで何かを感じることから始まります。三百年以上にわたる歴史と伝統の重みを、田無神社の例大祭において肌で感じていただけるかもしれません。地域の伝統を守り、次代へと受け継ぐためにも、例祭日にはぜひご参拝ください。

神社の祭祀は、大祭・中祭・小祭に区分されます。大祭として執り行われるものには、例祭、祈年祭、新嘗祭などがあり例大祭は、正確には「例祭の大祭」と呼ばれます。これは神社にとって最も重要な祭祀であり、神社の創建の日や、その神社に所縁の深い日が選ばれます。

田無神社の例祭日は、江戸時代初期に谷戸の宮山から現在地に遷座された日とされています。明治12年(1879年)11月付の田無神社から神奈川県に提出された資料「由緒」の項目には、次のように記されています。

「正應年間、当町字北原横山道南際(今、古宮跡と唱うる官有地これなり)に鎮座し、尉殿権現と称し一村の氏神たり。然るを寛文十年九月中、現今の地へ転社、爾来当町の鎮守とす。」

この記述から、寛文10年(1670年)9月が遷座の日であると分かります。

また、資料集『田無神社(1)』(1)には、明治34年(1901年)からしばらくの間、田無小学校も9月19日を休業日とし、生徒たちは羽織・袴姿で神社に参詣したと記されています。

しかしながら、宮山からの遷座日は旧暦であったため、現在使用されている新暦とは月日が一致しません。このため、神社総代・氏子・先代宮司らの協議により、平成3年(1991年)から旧暦に近い10月第2週の日曜日を例祭日と定めました。また、旧例祭日である9月19日には、境内社・龍神をお祀りする「五龍神祭」が斎行されるようになりました。

例祭日には、地元農家が育てた野菜や果物が神前にお供えされます。現在では、田無神社農園で収穫された野菜や果物もあわせて供えられています。また、本社神輿の鳳凰の口には、龍神池で育てた稲が括り付けられます。氏子の皆さまから奉納された日本酒などは、拝殿回廊にお供えされます。振る舞い酒として用意される四斗樽は、埼玉県蓮田市の神亀酒造株式会社様より奉納されたものです。

『たなしのむかし話 その1』(2)には、例祭日に関する次のような座談会の記述がありますので、ご紹介いたします。

保谷 田無神社が谷戸からここへ移されたのが九月十九日だったから、その日を祭りにしたんだよね。

浜中 そうなんだよね。あんまり十九日に雨が降るんで二十九日にしたことがあったな。

矢ヶ崎(要)初めは九月九日だったこともあるけど、九日は忙しいから十九日にしたんだ。二十九日になった時なんかもう寒い頃だろう。親はタビを買って子どもに履かせたり、羽織りを着せたりしなければならないし、費用がよけいかかるから、やっぱり十九日がいいやなんて言ってた。なにしろ祭の日は学校が休みで生徒はみんな朝九時頃羽織り、袴で神社に集まって、式があったんだよな。祭りだと言っても特にご馳走もなかったなあ。まあ赤飯と豆腐の入ったけんちん汁ぐらいだ。それにサンマでも買えば上等だよ。刺身だなんて目の薬に使ったぐらいだから。

例祭の大祭

(1)田無市立中央図書館(1984)『田無神社(1)』とおび社 p.40

(2)田無市市長室広報課(1975)『たなしのむかし話 その1』pp.52-53

神輿渡御

神輿とは、その名称のとおり、神霊を奉安する輿こしのことをいいます。

神輿を担ぐことによって、神さまと人とのつながりが深まり、同時に、担ぐ人同士の心もひとつになります。祭りを通して、神と人とが一体となり、神輿の巡幸により、その神域たる地域の家々に、御神徳が行き渡るとされています。

宵宮では、龍神神輿および女神輿の渡御が、本宮では本社神輿および子供神輿の渡御が行われます。 

宵宮祭は、宵宮の午後8時より、田無神社社殿にて斎行します。龍神神輿および女神輿の渡御は、宵宮の午後5時30分に御仮屋を出御し、田無駅前を折り返し、午後7時30分に田無神社立体駐車場2階入り口に還幸いたします。

例大祭祭典は、本宮の午前10時より田無神社社殿にて斎行いたします。本社神輿は、本宮の午前10時45分に社殿前を出御し、田無の街なかを練り歩き、午後3時45分に還幸予定です。その後、午後4時から第一回目、午後4時20分から第二回目の宮入道中神事が行われます。本社神輿還幸祭は、午後4時30分より社殿にて斎行いたします。本宮(10月13日)の午後4時からの宮入道中神事では、本社神輿が境内参道を二度進みます。還幸の際には、社殿回廊から神社関係者が神輿と太鼓に向かって紙吹雪を撒き、祓い清めを行います。なお、安全対策として、境内参道の両脇にロープを設け、参拝者の通行を一時的に制限させていただきます。ご参拝の皆様にはご不便をおかけいたしますが、ご理解とご協力のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。

神輿と太鼓 神輿と太鼓

本社神輿

本社神輿

本社神輿は、浅草の「宮本卯之助商店」によって奉製され、昭和22年(1947年)に田無神社に納められました。

「御神輿新調・太鼓張替車新調奉納終始決算報告書」によると、氏子から80,920円(うち神輿代金45,000円)を募り、同年7月14日・15日に「廣目祭」が斎行されたと記録されています。その後、昭和60年(1985年)には神輿の修復工事が実施されました。現在、本社神輿は神輿庫の中央に納められています。令和8年(2026年)に大規模な修復工事を予定しております。

万燈神輿

万燈神輿

万燈神輿は、田無神社崇敬会の石井新一氏により奉製されました。平成3年(1991年)からは、田無商業協同組合青年部を中心に、田無神社の宵宮祭において担がれるようになりました。その後、田無神社に新たな神輿庫が完成し、現在では三榮会神輿(現在は女神輿として渡御)とともに収蔵されています。

万燈神輿は、四面に提灯を取り付けた構造で、宵宮の夜に渡御されます。平成14年(2002年)以降は担がれない期間が続いていましたが、平成25年(2013年)の宵宮において12年ぶりに復活しました。しかし、令和6年(2024年)からは新たに龍神神輿が宵宮に渡御することとなり、万燈神輿の渡御は再び行われなくなりました。

令和元年(2019年)の渡御では、田無駅前ロータリーを出発し、總持寺駐車場を御旅所としたのち、田無神社へ還幸するルートが採用されました。

獅子頭輦台神輿

獅子頭輦台神輿

獅子頭(雄獅子・雌獅子)は、雨乞い神事の際に用いられました。金箔で仕上げられたこの獅子頭は、西東京市の文化財に指定されています。嘉永3年(1850年)9月に制作され、元治元年(1864年)4月に修理されたことが、獅子頭内部の漆書に記されています。

この獅子頭が制作された当時は、欧米列強の圧力が強まる幕末期でしたが、田無は宿場町として最も繁栄し、また徳川幕府の直轄地である天領の農民としての意気も盛んでした。獅子頭は、そうした田無の町の盛況を象徴する立派な拵えとなっています。

もとは、田無村の上宿と下宿が毎年神楽を競い、豊作を占う際に供えられたとされますが、後には輦台神輿と共に雨乞いの獅子として村人から信仰され、今日に至っています。

獅子頭を載せた輦台神輿は二基ありますが、両方を同時に担ぐと雄と雌が喧嘩をすると言い伝えられており、どちらか一基のみを担ぐことになったとされています。

明治時代、神仏分離令により獅子頭は西光寺(現・總持寺)に移されましたが、のちに田無神社へ戻されました。境内に神輿庫が完成するまでは、田無神社拝殿左側の納戸に納められていました。

この神輿がいつ頃まで担がれていたかは定かではありませんが、大正時代まで輦台神輿が担がれていたという記録や、戦後に神輿渡御を見たという証言もあり、正確なことはわかっていません。

多くの方に田無の歴史に目を向け、故郷としての田無に誇りを感じていただくことを願い、令和2年(2020年)の御遷座三五〇年大祭において、獅子頭輦台神輿の復活を試みましたが、新型コロナウイルス感染症のまん延により、企画は延期となりました。

津嶋神社神輿

津島神社神輿

津嶋神社の神輿は、かつては7月15日の祭礼に合わせて渡御されていましたが、現在は7月第2日曜日が津嶋神社の例祭日(津嶋祭)とされ、その日に担がれます。津嶋祭は、柳沢集会所に鎮座する津嶋神社にて斎行され、その後、柳沢ガード下付近にて神幸祭が執り行われます。神輿はその後、田無神社へと立ち寄り、境内の津嶋神社前にて津嶋神社例大祭が斎行されます。

昭和の中頃までは、一区の津嶋神社の神輿と、二区の天王様の神輿とが、それぞれの神輿に掲げられた鳳凰を取り合う「喧嘩神輿」が行われていたと伝えられています。

龍神神輿

龍神神輿

令和6年(2024年)、かつて「千貫神輿」と呼ばれていた大型の神輿が、田無神社奉賛会より田無神社に奉納されました。この神輿は、昭和50年(1975年)に奉製され、東京都立川市の諏訪祭りなどで担がれていたものです。狭い青梅街道でも安全に担げるよう修復が施され、あわせて神輿には新たに龍の彫刻が加えられました。

辰年に奉納されたことにちなみ、神輿の名称は「千貫神輿」から「龍神神輿」へと改められ、令和6年(2024年)の例大祭にてお披露目となりました。今後は、宵宮においてこの神輿を担ぎ、その歴史を紡いでまいります。

女神輿

女神輿

この神輿は、かつて三榮会の神輿として例大祭本宮にて担がれていましたが、平成30年(2018年)より宵宮において女性により担がれる「女神輿」として渡御されるようになりました。令和6年(2024年)からは、女神輿が龍神神輿の前を進行しています。

子供神輿

子供神輿

田無神社例大祭の本宮では、子供神輿の渡御が行われます。この神輿は、かつて谷戸のふるさと祭において地域で担がれていたものです。

田無神社では、レストランけんぞうから旧福澤屋駐車場(現:GSパーク駐車場)までの区間を、小学3年生から6年生までのお子さま先着100名が担ぐことができます。

宮太鼓

宮太鼓

宮太鼓は、昭和17年(1942年)に、浅草の宮本卯之助商店により奉製されたものです。令和7年(2025年)に、80年以上にわたって使用されてきた宮太鼓に対し、初めての大規模な修復工事を行いました。台車には新たにブレーキを取り付けるなど、安全面にも配慮した改修が施されています。

これまで、革の張り替えは昭和21年(1946年)、昭和29年(1954年)に行われており、今回の張り替えは実に71年ぶりとなります。また、太鼓の胴や台車に関する修繕は今回が初めての実施です。

なお、近年の大太鼓に関する修繕工事としては、令和4年(2022年)に完成した向台大太鼓、令和6年(2024年)に完成した天神社宮太鼓に続き、今回が3件目となります。

向台大太鼓

向台大太鼓

令和3年(2021年)11月、田無神社社殿において、向台「八坂神社」大太鼓の貼替始祭が斎行されました。

この大太鼓は、明治43年(1910年)に田無神社に合祀された、向台鎮座「八坂神社」のものです。かつて八坂神社の例大祭は6月15日に斎行されており、お神輿の渡御や参道での縁日・屋台の出店で賑わいました。大太鼓は、向台地域の雹祭りや田無神社例大祭、津嶋祭などにおいて、神輿の渡御と共に地域を練り歩いていたと伝えられています。

戦時中には、八坂神社跡地の倉庫が空襲を受けましたが、この大太鼓は焼失を免れて新井家(現・田無神社総代 新井浅浩氏)の蔵に移されました。のちに、昭和末期には尾林家(現・尾林造園)の蔵へと移され、長らく保管されてきました。

令和3年(2021年)、田無神社氏子青年部有志のご奉納により、株式会社浅野太鼓楽器店によって台車の新調と革の貼り替えが施され、大太鼓は再び蘇りました。これに伴い、田無神社がこの大太鼓をお預かりすることとなり、令和4年(2022年)9月には「向台町に伝わる大太鼓 お披露目会」が盛大に開催されました。

令和5年(2023年)7月には、田無神社境内にて津嶋神社の神輿に先導するかたちで大太鼓が渡御しました。

さらに令和6年(2024年)7月には、向台町にある社会福祉法人 東京聖新会ハートフル/フローラ田無から田無神社までを、5・6区を中心とした氏子や関係者、地域の子供たちが大太鼓を引いて練り歩きました。

神事 神事
御旅所 御旅所

神輿は、「御旅所おたびしょ」を巡りながら市内を巡幸します。御旅所に神輿が到着すると、御旅所祭が執り行われ、その後、直会なおらいが催されます。令和6年(2024年)現在、御旅所として選定されている場所は、大和屋駐車場、アスタ専門店街(田無駅北口ロータリー)、田無北口商店街(田無駅北ロータリー内)、レストランけんぞう、旧福澤屋駐車場(現:GSパーク駐車場)です。

昔のお神輿ルート