「じょうどの」は、特定の地域に根付いた土着の神であり、特に関東地方において広範な信仰圏を有していました。しかしながら、「じょうどの」の語義および神格に関する解釈については、現在においても諸説が併存しています。「尉殿」という漢字表記も見られますが、その字義は一意に確定されているわけではありません。この語義と解釈の複雑性は、歴史的背景や地域文化の多層性によるものであり、一概に結論を導き出すことは困難です。こちらに、「尉殿考」と題し、現存する四つの説とその解釈を提示いたします。

まず、「武蔵府中物語」における尉殿の記述を紹介します。「武蔵府中物語」は上下二巻から構成され、昭和38年(1963年)に武蔵総社大國魂神社より刊行された郷土誌です。これは、府中の歴史を中心にまとめたもので、当時の大國魂神社宮司であった猿渡盛厚氏によって編纂されました。「武蔵府中物語」下巻第十五編第五「尉殿神社と郷蔵」には、尉殿に関する記述が存在します。ここでは、尉殿を物産を収蔵する「倉」と解釈しており、この点は、田無神社第五代宮司・賀陽瑞穂の説と共通する見解と言えるでしょう。

武蔵府中物語(1)

「ある地方では、窮民救済の目的で出来た郷蔵を、社倉又は義倉と呼んで居る。この社倉の社は、元は神社の社から起こったものであろう。社は古字ではU+2566Dとも書いて、地神のことをいうので、いはゆる社稷の社である。中国古代の制度では、二十五家集った部落を一社と称し、其の社内に社壇を築き、樹木を植えて、社神を祀り、五穀豊穣を祈ったのである。

是れ即ち、その部落を社といった起源である。故に社とは、我国では郷とか、村というのと同意味であるから類推して、社倉、社会などという熟語も起こったものと思う。以上は単に社倉の社と、神社の社字の起源は、同じであるとの説明に過ぎないが、まれには、神社を中にして、初穂会を設けその幾分を貯蓄して出来た社倉があることも注意を要することである。

 なお別に、郷蔵中には、倉庫の守護神として、建てられた神社がある。それは古くは、国司時代には、国府内に(いん)(やく)神社、又は錠前神社があり、降っては、鎌倉頃から、徳川時代までと思うが、鍵殿神社、錠殿神社、及び尉殿神社がある。ついては以上の中、鍵殿、錠殿、尉殿について記述してみようと思う。

 我が北多摩郡内にも、尉殿と称した神社が三社ある。一は、田無町田無の今の田無神社、次は、大和町高木の今の高木神社で、旧称は共に尉殿権現と称して居たが、明治になって、今の社号に改称されたのである。次は、保谷町上保谷の、今の尉殿神社であるが、これは現に尉殿神社といって居る。

 元来、尉殿の尉の字は、別にも書き方が錠殿、浄殿などあるが、頗る異例の社号であって、意義更に不明である。一寸考へると、高砂の尉姥でも祀ったかのように思はれるが、祭神としてはそれもおかしい。よって私も、年来疑問のまま今日までに及んだ次第であるが、只高木の尉殿神社は、今は高皇産霊神となって居るが、これは高木神社となってから定めたので、古来からの伝承ではない。或は御戸開神といったが、或はこれが正しいかも知れない。(中略)よって思うに、以上の遺蹟は、王朝時代からの、郡倉か、郷倉か、或は降って徳川時代の郷倉のあった所ではあるまいか。即ち「じょうどの」は、錠を預かった家で、「内蔵助台は倉庫を管理して居た。役人の住んで居た遺蹟であろうと思はれるのである。されば、其処に錠殿、鍵殿神社があるのは、錠と鍵なるものは、倉庫にとっては、最も重要なものであるから、それを守護する神霊を鎮祭したのであろう。なお、思ふにこの石祠の二社は、文化元年に出来たとすれば、それ以前からあったものを改造されたもので、元の社殿は、もっと大きかったのが、小さい石祠に改造したものと考へられる。それで以前は、社殿内に或は倉庫の錠と、鍵を保管して置いたとも察せされないこともない。」


次に、『保谷市史 別冊二 保谷の石仏と石塔』における尉殿に関する記述をご紹介いたします。同書4頁から5頁にかけて尉殿についての記述があり、「尉」の字源を「級長」からの転訛と解釈しております。しかしながら、田無神社におきましては、この説は根拠に乏しく、立証が困難であると判断しております。

保谷の石仏と石塔(2)

「級長戸辺命は国津神の女神であり、古くから天津神の男神級長津彦命と一体の夫婦神として祀られた。その本宮と神名は『延喜式』の名神大社にあげられて、古代の朝廷が奉幣した奈良県生駒郡にある風神の龍田明神である。一方山岳宗教に源泉が求められる倶利伽羅不動明王は、民間信仰的に発展した水の神である。したがって垂迹の神が風神級長二尊命、その本地が水神俱利伽羅不動明王という権化思想の典型のような尉殿権現は、農耕神でありひいては農民の生活そのものに深く関係する神であった。水に乏しく、秋から冬に風が吹き荒れた保谷の風土にもっともふさわしい祭神なのである。この社の旧神事に、二百十日の風鎮め祈年祭があったのも、こうした風土に由来するものといえるだろう。

 社号の「尉殿」は難解とされて議論が続けられてきたが、竜田風神の「級長」を古語では「しなとのかぜ[科戸風]《シナトは「息(し)な門(と)」で、風の吹き起る所。神代紀には級長戸辺命(しなとべのみこと)という風の神の名も見える》」(『岩波版古語辞典』)とあり、息の長い鶏の種類を「級長鳥」とも呼んでることもあって、ここに風神の古代的風貌が浮び上がってくる。のち「息(生)が長い」は長命と同義に使われたところから、級長が長寿を象徴するめでたい「尉」に転化したものであろう。前述した宝晃院『当寺要用書写し帳』と西光寺所蔵『田無村尉殿権現縁起書』は「級長」に「殿尊」と続けて「級長殿尊」と綴っているから、級長→息(生)が長い、つまり「尉」となり、尉権現では座りが悪く、五所殿明神などと呼ぶ例があるところから「殿」と尊称をつけて「尉殿権現」となったものであろう。かつて社殿内にあったという神楽または能の古尉面の伝来を理解する一つの根拠になる。長寿や神仙は中国の道教思想の中心テーマであり、密教と修験道はこれと習合している。このようにみてきたとき、尉殿権現は水と風の神霊であるほかに、長寿の利益をも兼ねそなえた神であったことがわかる。」


次に、片桐譲著『神と仏と村落共同体―宗教社会史の視座からー』をご紹介いたします。

神と仏と村落共同体(3)

「尉殿神社の祭神については、従来水の神という伝承はあったものの社殿内に住吉の化身である高砂の翁の面があるから住吉の神であるまた、田無神社の祭神と併せて夫婦の神であったなどといわれて、正確には把握されていなかったようであり、その原因はひとえに尉殿=ジョードノの理解のむつかしさにあったものと思われる。祭神の神体がなぜ倶利伽羅不動であったのか、市文化財の指定にあたってできるだけ正しい由緒をたどっておく必要があるだろう。

『新編武蔵風土記稿』から抽出すると、

旧館村十殿(現志木市)、上内間木村重殿(朝霞市)、染谷村重殿(大宮市)、丸山村頭殿(伊奈町)、中野村通殿(鴻巣村)、大野村重殿(戸田市)、田無村尉殿(田無市)、林村重殿(所沢市)、喬木村尉殿(東大和市)、福田村通殿(川越市)、岡古井村通殿(加須市)、地頭方村通殿(吉見町)、桶川村十殿(桶川市)、久保島村蔵殿(熊谷市)、以上十、重、頭、通、尉、蔵など、濁音を持つ一字の「ウー」と尊称「殿」が一致する諸殿(以下「○殿」)と称する神社が採録されている。(中略)「これらジョーやジュ・・・ドノの神に関心を寄せる研究者」の「調査の広がり」と前述したが、それらは『志木市史調査報告書志木風土記第九号』「十殿権現小考」(神山健吉)、『坂戸市史調査資料第十九号』「地名尉殿・重殿」(小島清)などである。この研究論考から地名としてのジュー・ジョードノなどを拾うと、坂戸市内=尉殿(中里)・重殿(森戸)・尉殿塚(森戸)・上殿(萱方)・ズウ殿(厚川)、小川町=重殿またはジュウデン、越生町=上殿、毛呂山町=十殿・重殿淵、川越市(田島)=頭殿、妻沼町=蔵殿、岡部町=蔵殿、吹上町=通殿とあり、これらは湧水地点、小水路、河川、淵など生活に欠かせぬ水と緑のある場所に限られているらしい。歴史地理的な環境を選択し、フィールドを拡げて調査すれば、武蔵野を含む関東のうちには多くの類例が発見されるだろう。そこからもう一つ、尉殿の歴史ないし民族の普遍性が見えてくるともいえそうである。」


次に、『郷土ひたち』に収録された笹岡明氏による「ジュウドノ考」についてご紹介いたします。「ジュウドノ考(一)」は『郷土ひたち第41号』に、「ジュウドノ考(二)」は『郷土ひたち第42号』に、「ジュウドノ考(三)」は『郷土ひたち第43号』にそれぞれ掲載されております。「ジュウドノ考」は、茨城県北東部に位置する十殿神社、種殿神社、承殿神社などについて論じたものです。笹岡氏の論文によれば、ジュウドノ神社は茨城県北茨城市に3社、高萩市に6社、十王町および日立市に各1社存在し、これらの神社のほとんどが山間部に鎮座しています。また、かつては「十殿大明神」と称され、十一面観音、釈迦如来、薬師如来などが本地仏として祀られていたとのことです。

さらに、この地域の多くのジュウドノ神社では例祭日が10月10日とされている点も特徴として挙げられます。笹岡氏は、その理由について、10月10日がこの地域における「かりあげ」の日であり、収穫感謝祭として大祭が行われていたことに由来すると考察しています。また、十殿神社の「十」の字が例祭日から取られた可能性についても言及されています。

ここに「ジュウドノ考(三)」における御祭神に関する記述を紹介いたします。笹岡氏は、ジュウドノの神が製鉄・鍛冶の守護神であったことを論文中で示唆しています。この地域では、花崗岩から供給される砂鉄が豊富に存在し、山間部であるため水源も豊富であることから、製鉄・鍛冶の神が祀られていたことは何ら不思議ではないと考えられます。

ジュウドノ考(三)(4)

「ジュウドノの神は、多珂地方の山麓部から山間部の開発が進められた中世後半に、単一の神ではなく複数の神が合わせて祀られて成立したのではないかと考えられる。ごく狭い地域の神として、一つの集落を信仰範囲としていたようであり、そこに祀られた神仏は、その地域の人々の生業や信仰生活と密接につながっていたものであった。山間・山裾の地に祭祀されたジュウドノの神々の中には、土地の開発に伴う国土経営・農業・生産の神や地主神である山の神のほか、この地で行われていた製鉄・鍛冶の神なども勧請されていたと考えられる。また、社の造営・修築には武士・領主層の支援が大きかった。それは、戦国の世を生き抜く者だけに神仏への加護を願い、帰依する心が強かったからであろう。」

(1)猿渡盛厚(1963)「武蔵府中物語下巻」大國魂神社 第15編pp.588-590

(2)保谷市史編さん委員会 (1984)「保谷市史 別冊二 保谷の石仏と石塔」保谷市役所 尉殿神社境内pp.4-5

(3)片桐譲(2006)『神と仏と村落共同体ー宗教社会史の視座からー』とおび社pp.42-44

(4)笹岡明著(1993)『ジュウドノ考(三)』(郷土ひたち文化研究会『郷土ひたち第43号』所収)