満洲事変勃発奉告祭詞

この祝詞は、昭和6年(1931年)に満州事変が勃発したことを奉告するものです。
祝詞の中では、日清戦争、日露戦争における勝利に言及しています。
田無神社宮司・賀陽賢司と田無町長・鴨志田五兵衛氏との協議により、この祈願祭を斎行することが決定した旨も祝詞に記されています。鴨志田五兵衛氏は、町議を6期務めた後、昭和2年(1927年)に58歳で町長に就任し、昭和10年(1935年)に任期満了により退任されました。
祝詞文中には、「田無町与里戦場尓出向多畄伊共尓各母各母大砲小砲槍剣乃傷乎負布事無久身尓種々乃疾種々乃禍事無久・・・」とあり、田無町から戦場へ向かう人々が、怪我なく病なく、無事に帰還されることを祈願していることがわかります。

満洲帝国皇帝陛下御安全祈念祭詞

この祝詞は、満洲帝国皇帝・愛新覚羅溥儀が、昭和天皇の招待により昭和10年(1935年)4月に日本を国賓として公式訪問する際、その安全祈願のために送付されたものです。溥儀は中華圏最後の皇帝であり、その生涯を題材とした映画『ラストエンペラー』によって広く知られています。
祝詞文中の「三月一日刀言布璽満洲帝国皇帝乃御位璽即加世給比閉里之乎康徳刀改米給閉里・・・」という記述は、昭和10年3月1日に溥儀が満洲帝国皇帝に即位し、「康徳帝」と称された事実を指しています。なお、満洲国では日本の皇室との混同を避けるため、「帝室」という呼称を用いて区別していました。
また、祝詞文中にある「彼乃邦刀我賀邦刀波歯刀唇刀乃如久互美璽相離禮奴國柄」について、「歯と唇との如く」という表現は、慣用句「唇亡びて歯寒し」の類語と解釈されます。この解釈に基づけば、日本と満洲帝国は、互いに助け合うべき密接な関係にあると理解することができます。
さらに、祝詞文中に記された「阿須波乃神」は、宮中(宮廷)守護の神として知られています。

関東防空演習執行に付き例祭日変更願

関東防空演習執行に付き例祭日変更願

この文書は、東京府に対し田無神社の例祭日の変更を願い出たものです。昭和12年(1937年)には、9月15日から9月19日にかけて関東防空演習が実施され、田無神社においては、9月19日の例大祭斎行が困難であったため、例大祭の日程を10月9日に変更するよう願い出たものと推察されます。

東京府民諸君ニ告ク

東京府民諸君ニ告ク

この文書は、東京府知事・香坂昌康により、昭和7年(1932年)9月20日に配布されたものです。香坂昌康は、福島県、愛媛県、岡山県、愛知県の各県知事を歴任し、昭和7年5月に東京府知事に就任しました。
文頭の「我ガ國ハ今ヤ前古未曾有ノ難局ニ直面」という文言は、経済、農業、外交における危機的状況を伝えています。経済の合理化・組織化を図る旨の記述は認められるものの、それ以外の項目については、府民の士気高揚を目的とした「精神論」が列挙されています。
五・一五事件により政党政治が終焉を迎えた昭和7年(1932年)は、世界恐慌と相まって、昭和5年(1930年)の豊作飢饉、昭和6年(1931年)の東北地方を中心とした冷害による大凶作など、国民生活の疲弊が極限に達していた時期と重なります。

国威発揚祈願祭講演会式次第

国威発揚祈願祭講演会式次第

昭和8年(1933年)3月7日、日比谷公会堂において国威発揚祈願祭と講演会が開催されました。この年2月には、スイス・ジュネーブで開催された国際連盟総会において、リットン調査団報告書が審議され、日本軍に対して満州鉄道付近までの撤退を求める決議案が、42カ国の賛成により採択されました。
その後、日本政府は3月27日に国際連盟脱退の勅書を発布しました。さらに、4月29日には日比谷公園において国際連盟脱退勅書奉戴式が挙行され、学生2万人が参列したと伝えられています。

兵士の玉串拝礼

兵士の玉串拝礼

この写真は、昭和13年(1938年)7月11日に撮影されたものです。昭和12年(1937年)に、中華民国・北京西南方向の盧溝橋において、日本軍と中国国民革命軍との間で衝突事件(盧溝橋事件)が発生しました。
写真に写る若い兵士は、玉串拝礼を執り行うため、榊の枝を手に持っています。写真には祭壇の様子は写っていませんが、戦勝祈願または武運長久祈願祭の様子であると推察されます。

田無神社社号碑

田無神社社号碑

荒木貞夫は、戦前に陸軍大臣、陸軍大将、文部大臣を歴任し、戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によりA級戦犯として終身禁錮刑に処されました。田無神社の一の鳥居横、青梅街道に面して設置されている田無神社社号碑は、荒木貞夫の揮毫によるものであり、皇紀2600年を記念して昭和15年(1940年)11月10日に建立されました。

慰問袋内容ノ参考

慰問袋内容ノ参考

こちらは、昭和13年(1938年)2月5日に出された「慰問袋に関する件」に関する書類のうち、慰問袋の内容品に関する参考資料にあたります。
戦地で使用される日用品のほか、兵士たちが余暇に楽しめる玩具や嗜好品など、多様な品々が慰問品として届けられました。日中戦争の開戦に伴い、国内は本格的な戦時体制に入り、前線への慰問品の送付が一層活発になっていきました。

神社功労者表彰申請書

神社功労者表彰申請書

田無神社境内末社(摂社)である津嶋神社の大祭は、毎年7月15日に「津嶋祭」として斎行され、田無2区の「津島神社敬神会」がその奉仕を担っていました。この「神社功労者表彰申請書」には、昭和期の敬神会会長・野口秋太郎氏、副会長・小山壽平氏の功績を称える旨が記載されています。
文中によれば、戦時下において会員の減少により神輿の渡御や祭礼の規模も縮小せざるを得ない状況の中、両氏は中心的な役割を果たし、私財を投じて支援を続けました。そして、会の名称を「津島神社敬神会」から「昭和敬神会」へと改め、新たに会則を定めるなど、神社の隆盛のために尽力されたことが記されています。

二・二六事件 臨時祭祝詞

これは、二・二六事件の発生を受けて臨時祭の斎行を促す旨の通知書です。
通知では、事件発生から5か月後の昭和11年(1936年)7月27日・28日・29日に、臨時祭を執り行うよう指示しています。
二・二六事件では、岡田啓介首相と誤認された義弟で秘書の松尾伝蔵海軍大佐が射殺されたほか、高橋是清大蔵大臣、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監が殺害され、鈴木貫太郎侍従長が重傷を負いました。
祝詞文中には「帝都乃内爾由久利奈伎事共起里氐大御心乎悩奉理氐…」とあり、昭和天皇が事件に深く心を痛めておられたことがうかがえます。このクーデターは、昭和天皇が討伐の断固たる意志を示されたことで鎮圧に向かい、2月29日に終息しました。

国体明徴歌十首

国体明徴歌十首

この十首の中には、明治天皇の御製、国歌や『万葉集』に収められた防人の歌が含まれています。
「国体明徴」とは、天皇を中心とする国家のあり方を明らかにし、その正当性を示すことを意味します。昭和10年(1935年)に起きた天皇機関説事件を受け、軍部や右翼勢力の強い要請により、当時の岡田内閣が発表したのが「国体明徴声明」です。

東京市国民精神総動員実践強調週間

昭和12年(1937年)8月、近衛内閣は、日中戦争の勃発を機に国民全体に戦争への協力を広く呼びかけるため、「国民精神総動員実施要綱」を決定しました。これを受けて、同年9月からは、国民の協力を長期的に得るための運動「国民精神総動員運動」が全国的に展開されました。
この通知は、「国民精神総動員実践強調週間実施に開し東京市長より申越に付依頼の件」として、昭和13年(1938年)1月1日から7日までの期間に実施される東京市の国民精神総動員実践強調週間において、各家庭が行う「実践宣誓」の宣誓書を神社が預かることが記載されています。
期間中、各家庭では「実践宣誓」を行い、その宣誓書を地域の氏神(神社)に納めるよう求められていました。また、強調週間の終了後には、集められた宣誓書を神前に供えて奉告することとされていました。

靖國神社臨時大祭に際し全国民黙祷の時間設定に就て

靖國神社臨時大祭に際し全国民黙祷の時間設定に就て

この通知書は、昭和13年(1938年)4月23日に田無町役場から発出されたものです。靖国神社において、支那事変(日中戦争)で戦死した英霊を合祀する臨時大祭が斎行されることに伴い、英霊に対する感謝と哀悼の意を表すため、全国民に黙祷を呼びかける内容となっています。
通知では、昭和天皇が4月26日午前10時15分に靖国神社をご親拝されるのに合わせ、田無町の人々にもその場で1分間の黙祷を捧げるようお願いしています。

国民貯金に関する件

急増する戦費に対応するため、政府は国民の預貯金を、財源の一部として活用する方針を打ち出しました。そのため、貯蓄の重要性が広く訴えられるようになり、昭和13年(1938年)には、全国的な「国民貯蓄運動」が展開されました。
この通知には、国民貯蓄に関する取り組みとして、町村や各種団体が協力し、地域の実情に応じて積極的に推進していくことが望まれる旨が記されています。また、「国民貯金組合」への加入が呼びかけられています。

映画會施行申請書

映画會施行申請書

こちらは、田無神社境内で映画会を実施するための申請書です。申請書には支店名の記載がありませんが、田無に支店を持つ企業または銀行によるものと推察されます。映画会は、昭和14年(1939年)10月9日午後6時30分から開催された可能性があります。
なお、同年10月1日には、映画を国家総動員体制の一環として統制し、国民の思想を管理することを目的とした「映画法」が施行されています。

應召兵士家族慰問のため興行申請書

應召兵士家族慰問のため興行申請書

こちらは、昭和13年(1938年)10月15日午後6時半より、下保谷天神社境内にて応召兵士の家族を慰問する目的で映画会を開催するために提出された申請書の一部です。
別紙には、入場料は無料で、客席はすべて立ち見、お手洗いの設置は行わない旨が記載されています。
昭和12年(1937年)には、戦傷者や遺族の生活を支えることを目的とした「軍事扶助法」が施行されましたが、この資料からは、神社主催による応召兵士家族への慰問が行われていたことが伺え、当時の社会的背景を示す貴重な記録となっています。

海軍士官儀礼用長剣

海軍士官儀礼用長剣

この長剣は模造刀であり、実際に海軍士官が使用していたかどうかは不明です。