田無神社の創建は鎌倉時代に遡ります。当初、神社は現在の鎮座地から北へ約1キロメートルほど離れた北谷戸の宮山に鎮座しており、「尉殿権現」と称されていました。時代が下り、江戸時代になると、江戸城の増改築に伴い、漆喰の原料となる石灰の運搬のために青梅街道が開かれました。これにより、北谷戸の住民たちは青梅街道沿いに移り住むことになります。この移住によって、江戸と青梅のほぼ中間に位置する「宿場町田無」が形成されました。初めは青梅から江戸へ石灰を運ぶ中継地でしたが、次第に武蔵野の商業や産業の中心地として発展していきました。 その後、川越から江戸へ石灰を運ぶ輸送路として船運が盛んになると、青梅街道を利用した石灰運搬は減少していきました。しかし、青梅から甲府までの道が開通すると、甲州街道の裏街道として再び賑わいを取り戻していきました。このような歴史的背景の中で、宮山に鎮座していた尉殿権現社は17世紀に現在の鎮座地へ遷座しました。尉殿権現社は明治政府の神仏分離政策により、明治5年(1872年)に「田無神社」と改称されました。さらに、明治43年(1910年)には町内の5つの小社が合祀され、昭和24年(1949年)には大鳥神社から大鳥大神が分祀され、現在に至ります。

『Origins』

The origins of Tanashi Jinja, dedicated to Okuninushi-no-mikoto and Shinatobe (Shinatsuhiko)-no-mikoto, are not definitively known. However, records from the late 13th century (Kamakura period) indicate its connection to Jodono-gongensha, a local guardian shrine. This shrine was originally situated on Miyayama in the Yato district, which served as the central area of Tanashi at that time.
With the establishment of the Tokugawa Shogunate and the beginning of the Edo period (1603-1867), the Ome-Kaido highway became a crucial route for transporting lime from the Ome district, used in the construction of castles and town walls. Consequently, local activity shifted towards this highway, and Tanashi developed into a thriving post town. In 1670, Jodono-gongensha was relocated to its present site in Tanashi.In 1858, Shimoda Hanbe Tomiie, the village head of Tanashi, commissioned the renowned Edo-period sculptor Shimamura Shunpyo to rebuild the shrine’s honden (main sanctuary). The shrine was officially renamed Tanashi Jinja in 1872.
*Jinja is Japanese term for shrine.

本殿・拝殿について 東京都指定文化財

現本殿は安政5年(1858年)に着工されました。その際、旧本殿は取り壊されることなく、現在も摂社「野分初稲荷神社社殿」として、本殿の東側に鎮座しております。
現本殿を手掛けた彫工・嶋村源蔵は、江戸において最も有力な彫物大工三家の一つである嶋村家の八代目当主であり、「俊表しゅんぴょう」の名でも広く知られています。
彼は、田無神社本殿の他に、天保13年(1842年)には川越氷川神社本殿、安政4年(1857年)には成田山新勝寺釈迦堂の扉彫刻を手がけました。
拝殿は、明治8年(1875年)に竣工いたしました。本殿の竣工から17年後に建設された拝殿ですが、その間には、幕府の滅亡、維新政府による神仏分離令、町村の設立など、社会情勢に大きな変動がありました。この時期、田無村も新たに「田無町」へ改称しようとしており、町民は一丸となって寄付を募り、新たな田無神社の拝殿建設に協力いたしました。
本殿は、ほとんど名主・下田半兵衛の個人財力によって建設されましたが、拝殿は町民の参加によって建立されました。造営は地元の大工たちによって行われ、その技量と気迫は、本殿のそれにも匹敵するものでありました。なお、彫工は分業制をとらず、彫物もすべて大工自身が手がけております。この事実は、当時の地域の大工技術が高い水準を維持していたことを示す、極めて貴重な遺構であると言えます。

本殿・拝殿は平成12年(2000年)に東京都指定文化財(建造物)に登録され、その後、平成30年(2018年)に特に景観上重要な歴史的建造物等(東京都景観条例)(1)に選定されました。

宮山について

田無発祥の地は、水に恵まれた谷戸地域であったと推定されています。西東京市の文化財に指定されている「延慶の板碑」は、谷戸地域の横山道付近の畑で発見されたものであり、延慶(1308年〜1310年)の年号が刻まれています。畑の西側には、現在、西東京市立田無第二中学校が所在しており、その屋外プール付近は「宮山」と呼ばれ、尉殿権現社が当時鎮座していた場所と伝えられています。谷戸は「本宿」とも呼ばれ、横山道に連なる集落でした。谷戸地域には、宮山の尉殿権現社とは別に、白山社、弁天社、稲荷社がそれぞれ鎮座していました。

遷座について

田無尉殿権現(2)の宮山からの遷座日および遷座(3)の過程については、諸説存在します。

宮山の古尉殿権現(2)から遷座したとする「宮山遷座説」や、上保谷尉殿権現(2)から分祀(4)したとする「上保谷尉殿権現分祀説」など、様々な見解が存在しますが、ここでは、田無神社所蔵の宝物である「田無神社記」等に記されている宮山遷座説について、その根拠となる4つの資料とともにご紹介いたします。

  • 『公用分例略記(訴壱)』
    「(正保)三戌年鎮守尉殿大権現北谷戸宮山ゟ當村下出口海道北ニ御宮写シ(抜粋)」(5)
  • 『下田家文書 田無神社拝殿再建竣工ニ付覚書』(下田家所蔵)
    「寛文之頃鎮守尉殿権現社字本宮ヨリ固ニ移ス(抜粋)」(6)
  • 田無神社宝物の『本社拝殿棟策』(田無神社所蔵)
    「本社本在谷戸稱尉殿権現祀大己貴命寛文中遷鎮(抜粋)」
  • 田無神社宝物の『田無神社記』(田無神社所蔵)
    「本社は大己貴命を斎祀りて田無村の字谷戸と云へる所にて尉殿の権現社と稱せしを、元和の頃彼所此所の人民等江戸の大城の下に移住むもの多かりければ、谷戸の人民も此地に移住み年々弥益に民家の多くなり来にければ、寛文年中に至りて本社をば此所に遷し奉りて本の如く産土神と斎祭れり(抜粋)」

「公用分例略記」には「谷戸宮山」と記録され、下田家文書には「本宮」、本社拝殿棟札には「谷戸」、田無神社記には「谷戸・本社」と記されています。いずれの資料においても、上保谷尉殿権現に関する記述は認められないことから、田無尉殿権現は、宮山から現在の地に直接遷座したことが明らかとなります。

遷座の過程

ここでは、複数の説の中でも特に複雑かつ難解な説についてご紹介いたします。六代宮司・賀陽濟(7)は、『田無神社本殿の美』(8)において、遷座の過程について以下の通り解説しております。

「人々は宮山に鎮座する尉殿大権現を、まず元和8年(1622年)に上保谷に分祀しました。つづいて正保3年(1646年)に宮山から田無に分祀しました。その際に、上保谷の尉殿大権現から男神の級長津彦命を田無に遷座することで、田無と上保谷の尉殿大権現を夫婦神として位置付けました。そして寛文10年(1670年)には宮山に残っていた尉殿大権現の本宮そのものを田無に遷座したのです。」(8)

六代宮司・賀陽濟は、田無尉殿権現が上保谷尉殿権現から遷座された旨を述べています。『田無神社本殿の美』には、宮山からまず上保谷尉殿権現へ御祭神を「分祀」し、その後、田無尉殿権現へ再度「分祀」、さらに上保谷尉殿権現から田無尉殿権現へ男神を「遷座」したと記録されています。賀陽濟によれば、宮山から田無尉殿権現への分祀の際には、女神である級長戸辺命しなとべのみことが宮山から「分祀」され、男神である級長津彦命しなつひこのみこと上保谷尉殿権現から「遷座」したとされています。宮山からの移動が「遷座」ではなく「分祀」であったため、この時点(正保3年)では、宮山には級長津彦命および級長戸辺命の二柱が残存していたことになります。現在、田無神社では級長津彦命級長戸辺命の二柱をお祀りしていますが、上保谷尉殿神社では女神の級長戸辺命一柱のみが御祭神とされています。上保谷尉殿権現からの移動が「遷座」であったため、上保谷には級長津彦命はもはや存在しないことになります。したがって、消えた男神・級長津彦命は、田無神社に遷座されたと考えられます。

(1)「特に景観上重要な歴史的建造物等(建造物)」は、文化財など歴史的な価値のある建造物等のうち、その建造物等を含む周辺の良好な景観の形成に特に重大な影響を与えるものを選定するものです。令和6年1月現在、ニコライ堂、日本銀行本店本館など80ヵ所が選定されております。

(2)ここでは、判りやすいように、神仏分離以降の田無神社を『田無神社』、神仏分離以前の田無神社を『田無尉殿権現』、神仏分離以降の尉殿神社を『尉殿神社』、神仏分離以前の尉殿神社を『上保谷尉殿権現』、谷戸の宮山の尉殿権現を『古尉殿権現』と表記します。

(3)遷座とは、社に祀られているご祭神をそっくり別の地に移して、新たに祀ることを指します。

(4)分祀とは、本社と同じご祭神を別の地に祀り、分社をつくることを指します。

(5)下田富宅編(1966)『公用分例略記』東京書房社、p.73(公用分例略記の編纂本)
『公用分例略記』は田無の名主を務めた下田家に伝わる文書で、全17巻から成ります。この文書は嘉永6年(1853)に当主下田半兵衛(富潤)が先代より残された文書の中から重要なものを選び、「訴」と「触」に分けて年代順に書き写したものです。『公用分例略記』は当時の地域の様子を知る貴重な資料であり、西東京市の文化財に指定されています。

(6)下田家所蔵『田無神社拝殿再建竣工ニ付覚書(一紙物)』 資料番号288
資料番号については、田無市史編さん委員会(1990)『下田家文書目録』精興社p.120を参考にしています。

(7)六代宮司の賀陽濟(1953~2013)は、千葉大学医学部を卒業後、精神科医として従事しました。なお、初代宮司の賀陽濟と同姓同名です。

(8)賀陽濟(2000)『田無神社本殿の美』武蔵野企画、pp.4-5