本殿の神々


内務省神社局の指導の下、明治39年(1906年)から明治43年(1910年)にかけて神社合祀が実施されました。これにより、府県社以下の神社は、約19万社から13万社に整理されました。田無神社は、明治43年(1910年)に町内の5つの神社を本殿に合祀いたしました。この5社は、上向台に鎮座する八衢比古神ヤチマタヒコノカミ八衢比売神ヤチマタヒメノカミを主祭神とする八幡神社、下向台に鎮座する素戔嗚尊スサノヲノミコトを主祭神とする八坂神社、北芝久保に鎮座する倉稲魂命ウカノミタマノミコトを主祭神とする稲荷神社(1)、上宿に鎮座する應神天皇オウジンテンノウを主祭神とする八幡神社、そして谷戸に鎮座する猿田彦命サルタヒコノミコトを主祭神にする熊野神社です。その後、昭和24年(1949年)に大鳥神社より大鳥大神おおとりのおおかみ が分祀されました。

合祀について『田無市史第4巻 民俗編』には次のように記されています。

「それぞれの地区の鎮守神は、田無神社に合祀された際、神輿や賑やかなお囃子の先導で田無神社に送られたという。しかし、合祀後も天王様の祭礼には各地区のかつての鎮守神を担ぎ、神輿や太鼓で田無神社に繰り出していた。こうしたことは昭和30年頃までは盛んに行われていたという。」(2)

明治7年(1874年)の賀陽家(宮司家)の戸籍には、田無神社の末社として八幡神社1社、熊野神社1社、白山神社1社、稲荷神社3社が記載されております。ここでいう「末社」とは、現代における境内に鎮座する小規模な神社のことではなく、村内で管理されていた神社のことを指します。八幡神社は上宿、熊野神社は谷戸、白山神社は谷戸、稲荷神社の3社は北芝久保、上向台、南芝久保に、それぞれかつて鎮座していた神社です。

『田無市史第四巻 民俗編』には、「明治初期、白山神社も野分初稲荷もお上の命令で田無神社に合祀されたとも伝えられる。」(3)と記されています。しかし、現在、田無神社では本殿・摂社・末社において、白山神社の御祭神である白山比咩大神をお祀りしていないため、真偽のほどは定かではありません。

大国主命は出雲大社の祭神であり、日本各地の神社において祀られております。大国主命は、海の向こうから来訪した少彦名命と協力し、日本国の開拓と経営に尽力され、葦原中国(日本国の異称)の主となりました。その後、天照大御神の命を受け、葦原中国平定のために天降った武御雷神に国を譲り、幽界にお隠れになられました。

津彦命級長戸辺命の二柱は、龍田大社や伊勢神宮内宮の別宮である風日祈宮、外宮の別宮である風宮などにおいて祀られる風を司る神々です。元寇の際には神風を吹かせ、日本の国土を守護された霊験あらたかな神々です。田無神社では、五行思想に基づき、本殿に津彦命級長戸辺命を金龍として祀り、境内各所に黒龍、白龍、赤龍、青龍を配祀し、『五龍神』として信仰されております。この五色は、古代中国に成立した陰陽五行説に基づくものであり、「木・火・土・金・水」の五元素は、色彩や方位、季節、時間など多岐にわたる事象に当てはめられます。「木・火・土・金・水」を色で表すと、「青・赤・黄・白・黒」となり、方位では「東・南・中央・西・北」を示します。

摂社と末社の神々

田無神社の境内には、本殿のほかにいくつかの小さな御社があり、これらは摂社・末社と呼ばれています。本社と深い縁のある神様を祀る御社は摂社、それ以外の神様を祀る御社は末社です。

野分初稲荷神社

倉稲魂命うかのみたまのみこと大宮売神おおみやのめのかみを御祭神とする野分初稲荷やぶそめいなり神社の社殿は、現在の本殿が安政5年(1858年)に建立されるまで、田無尉殿権現の本殿であったと伝えられています。その理由は2つあります。1つ目は、この旧本殿が田無神社の伝承によれば万治元年(1658年)に竣工されたもので、田無神社境内の木造建造物の中で最も古い建物とされているからです。2つ目は、東日本大震災後の復旧工事の際、現在の本殿内側の土から四角い木渋が付着した鎮物として埋められた石が発見されたことです。この四角形の木渋の大きさと現野分初稲荷神社の柱の大きさがほぼ一致したため、旧本殿の柱を支えていた礎石であると考えられています。

旧本殿(現野分初稲荷神社本殿)は平成12年(2000年)に早稲田大学理工学部建築史学科の教授らによって本格的な調査が行われました。この調査では、身舎の木鼻や虹梁の絵様などから、江戸初期の遷座の際に建立されたものとされています。ただし、向拝・縁廻り、内法長押、かぶら懸魚などには江戸中期頃の改変の跡が見られました。当初は縁のない見世棚造りで、縁を設けたことにより向拝を前に出し、屋根の勾配を変更したと考えられています。全体的に破損や改変が激しく、ペンキ塗装が施されるなど保存状態は良くありませんが、洗練された絵様や軸部に欅(けやき)を用いる点など、関東の江戸初期の特徴をよく伝えており、類例の少ない貴重な遺構とされています。

この御社の現在の御祭神である野分初稲荷神倉稲魂命大宮売神)は、元々谷戸小学校南側付近に鎮座していた新井家が信仰する稲荷社であったとされています。新井家の初代は、下田家の一族として鎌倉時代にこの谷戸に住み着いたと伝えられています。現在でも、田無神社では野分初稲荷神社を下田家のお稲荷さんと呼んでいます。平成7年(1995年)に執り行われた野分初稲荷神社の境内遷座祭では、急に大風が吹き、大雨が降り、雷が鳴り響く夜に、神職がずぶ濡れになりながら奉仕したと伝えられています。

鎮物の石
鎮物の石

煩大人神社と鹽竈神社

野分初稲荷神社の東側には、煩大人神わづらいうしのかみを御祭神とする煩大人わづらいうし神社」と、塩土老翁しおつちのおじを御祭神とする鹽竈しおがま神社」が鎮座します。平成12年(2000年)に早稲田大学理工学部建築史学科の教授らによる調査が、この2社に対しても行われました。
調査によると、水引虹梁みずひきこうりょうは絵様の比較から、野分初稲荷神社よりも古いものと考えられていますが、これら二社はいずれも江戸中期から後期のものとされています。ただし、社殿の材については、近年までにほとんど取り換えられていることが判明しました。社伝によれば、この二社には古くから、津彦命級長戸辺命の二柱がそれぞれ祀られていたと伝えられています。本殿の左右にこれら二社が鎮座し、向かって右に津彦命、向かって左に級長戸辺命が祀られていたとされています。なお、煩大人神社、鹽竈神社の御神霊が、どの時期に、またどこから遷座されたのかは不明です。明治12年(1879年)に神奈川県へ提出された資料には、摂社として煩大人神社の記載はあるものの、鹽竈神社の名は見当たりません。

煩大人(わづらいうし)と鹽竈(しおがま)
煩大人わづらいうし鹽竈しおがまの御社 昭和中頃撮影

少彦名神社

本殿向かって左手には、少彦名命すくなひこなのみことを御祭神とする少彦名神社が鎮座しています。田無神社では、少彦名命疱瘡ほうそうの神としてお祀りしています。「疱瘡」とは天然痘のことであり、明治中頃から昭和初期にかけて関東地方で天然痘ウイルスが流行した際、人々が少彦名命を疱瘡神として田無神社に勧請したものと考えられています。

少彦名神社御遷座祭 平成12年(2000年)撮影
少彦名神社御遷座祭 平成12年(2000年)撮影

深夜に斎行される遷座祭で、少彦名命が現在の場所に遷されました。祭主は賀陽濟が務めました。夜の闇が広がる中、御神体を納めた器は「絹垣」と呼ばれる白い絹の布に覆われ、神職たちに守られながら、現在の場所へと進みました。

弁天社

舞殿の北側には、須勢理姫命すせりびめのみことを御祭神とする弁天社が鎮座します。須勢理姫命須佐之男命の娘神で、大国主命の妻神です。田無神社の主祭神が大国主命であることから、その妻神である須勢理姫命を弁天社としてお祀りしたのではないかと考えられています。舞殿の南側には、父神である須佐之男命をお祀りした津嶋神社が鎮座しています。

津嶋神社

津嶋神社の現在の御社殿は、平成3年(1991年)に神田神社の御厚意により、神田神社境内社の江戸神社の旧御社殿を譲り受け、移築されたものです。移築修復の設計は松本省蔵氏によるもので、向拝柱の青龍の彫刻は酒場玄進氏とその弟子小野寺武男氏が手掛け、彩色は片岡鋭二氏が担当しました。

「年中村入用覚帳」(4)には、明治2年(1869年)9月の尉殿大権現の祭礼から、明治6年(1873年)8月の真誠学舎の開業までの4年間にわたる村費の支出明細が、下田半兵衛によって日を追って記された帳簿が掲載されており、津嶋神社は明治3年(1870年)9月30日に、田無1区の津嶋社が田無神社境内に遷座したとされています。津嶋社が牛頭天王を祀っていたことから、神社から仏教的な要素を排除しようとした神仏分離政策の影響を受け、地域のお社に先駆けて、明治3年(1870年)に遷座したのかもしれません。
また、津嶋神社の縁起について、以下をご紹介いたします。

『柳沢地区の稲荷講中の祀る稲荷もイヌキの家に残されていたものである。この稲荷の所有者は、柳沢の山川権左衛門という。この家は「藤屋」という脇本陣の家であった。明治中頃まで宿屋を営み、明治22年前後には田無から他村へ移っていった。同家には、寛文年間に尾張の津島から移住してきたという伝承がある。尾張からこの田無に落ちのびてくる際、津島神社を勧請し、その分霊を背負ってきたのだと伝えられる。その津島神社は「藤屋」の敷地―現在柳沢集会所あたりーに稲荷様と並んで祀られていた。津島神社は後に田無神社の脇に移され、稲荷の方は現在もそのまま残されている。
「藤屋」が他村へ移った後、残された地所は柳沢の海老沢、笠原、山川の3軒の家でひきうけ、津島神社はこの三軒と、萩原、須田の5軒が肝入りとなってお祀りするようになった。7月にある天王様のまつりがこの津島神社のまつりであり、現在は柳沢地区全体のまつりになっている。』(5)

尉殿の神とは

尉殿の神を特定し、理解しようとする試みは、明治初期の初代宮司(社掌)賀陽濟、二代目宮司賀陽尚賢の時代から存在していました。『慶安由緒』には、明治25年(1892年)の田無神社大祭日に、当時の宮司(社掌)であった尚賢が、慶安元年(1648年)に西光寺(現田無山総持寺の前身)の社僧である千春房が示した尉殿権現の由来を、総持寺の野尻住職に確認した旨が記されています。この資料には、肥前国吉備神朝嶺、日向国小戸橘檍原、摂津国西宮神社、武蔵国三峰山に「級長殿尊」もしくは「尉殿」が祀られていると記録されております。慶安由緒に記載のある肥前国吉備神朝嶺、日向国小戸橘檍原、摂津国西宮神社、武蔵国三峰山と「級長殿尊」「尉殿権現」との関連性については、現在に至るまで有力な資料の発見には至っておりません。これらの場所に実際に「級長殿尊」「尉殿権現」が祀られていたのか、また、なぜ現在それらが祀られていないのかについては、今後の論文等による学術的な研究によって解明されることが期待されます。

慶安由緒 明治25年(1892年)
慶安由緒 明治25年(1892年)

倶利迦羅不動明王について

『慶安由緒』には「従古来本地垂迹倶利伽羅不動明王種子 神道御流灌頂本地十一面観世音」と記されております。これは、尉殿の神として垂迹したのが級長殿尊であり、本地仏が倶利伽羅不動明王十一面観音菩薩であることを示しております。倶利伽羅不動明王の像や碑は、滝口や清水が湧出する水辺などに「水神」として祀られます。剣は不動明王の持物であり降魔の利剣、巻きついた龍は不動の金縛りの羂索を表したものとされ、民間信仰では降雨や病気平癒を司る水の守護神とされております。実際に、明治初期まで田無尉殿権現は西光寺(現総持寺)が別当を務め、倶利伽羅不動明王像を御神体としておりました。その後、神仏分離令に従い、御神体の倶利伽羅不動明王像は西光寺本堂に奉安遷座されることとなりました。

明治政府は神祇官再興運動や神道興隆思想を継承し、様々な政策を打ち出しました。神仏判然令によって、僧職にある別当と社僧が神社の祭祀に携わることを禁止し、権現などの仏教に基づく神号が廃止されました。また、神社と寺の境内の区分も行われ、神社内の仏像などを取り除くことが求められました。この方針により、神社の中にあった仏教的要素と寺にあった神道的要素が整理され、神社と寺を区分する神仏分離が実施されました。上保谷尉殿権現に祀られていた御神体も倶利伽羅不動明王像(西東京市指定文化財)であり、現在はかつての別当寺である宝寳院に収蔵されております。また、田無尉殿権現の拝殿に掲げられていた尉殿大権現神号額(西東京市指定文化財)は西光寺(現総持寺)に引き取られました。

上保谷尉殿権現田無尉殿権現どちらの御神体も倶利伽羅不動明王像であったということは、当時の人々にとって水は貴重なものであり、祈りの対象であり、感謝すべきものであったことを示唆しています。

級長殿尊とは

上保谷尉殿権現田無尉殿権現では、級長殿尊を垂迹神としています。しかしながら、級長殿尊という神は尉殿権現以外には存在せず、『古事記』や『日本書紀』においてもその名を特定することはできません。また、その読み方すら現代においては判明しておりません。

それでは、級長殿尊とは一体どの神を指し示すのでしょうか。

現在、田無神社では、シナツヒコノミコトシナトベノミコトを御祭神としています。シナツヒコノミコトは男神、シナトベノミコトは女神であるとされています。シナツヒコノミコトシナトベノミコトは、『日本書紀』では級長津彦命級長戸辺命と、『古事記』では志那都比古神志那都比売神と表記されます。級長殿尊は『日本書紀』の「級長」と漢字が共通するため、シナツヒコノミコトシナトベノミコト二柱の神を指しているとするのが現在の通説です。当時の人々がシナツヒコノミコトシナトベノミコトの男女神両方を総称する際の呼称として、慶安由緒に「級長殿尊」と記載した可能性も考えられます。

東京都内でシナツヒコノミコトシナトベノミコトが祀られている神社を、『東京都神社名鑑(上)(下)』(6)から抽出すると、西東京市鎮座の田無神社、尉殿神社を除くと、根津神社の摂社である駒込稲荷神社、亀戸鎮座の石井神社、西多摩郡鎮座の奥氷川神社の摂社である竜田神社、三宅島鎮座の御笏神社の摂社である風神社の四社のみです。東京には神社が約1,500社あり、摂社を含めればその何倍もの数になります。その中で、シナツヒコノミコトシナトベノミコトを祀る神社は田無神社と尉殿神社を含めても六社しかありません。そのため、東京都では珍しい御祭神であると言ってもよいでしょう。鎮座地が「文京区、江東区、田無、保谷、西多摩、三宅島」と点在しており、地縁的な広がりからこの二柱が祀られていったわけではないため、それぞれの地域の特殊な事情により勧請されたと考えられます。

尉殿神社社殿
尉殿神社社殿

田無神社の兼務社で、住吉町に鎮座する西東京市上保谷の氏神社。御祭神は天照大御神、女神の級長戸辺命

水の神「じょうどの」

四代宮司の賀陽賢司、五代宮司の賀陽瑞穂、六代宮司の賀陽濟は尉殿の名前の由来について、それぞれ異なる解釈をしています。ここでは、それぞれの宮司がどのように尉殿を捉えていたのかを紹介します。

四代宮司の賀陽賢司は昭和40年代に作成された小冊子の中で、田無神社の由緒について次のように解説しています。

「元の御社名の錠殿の御名は、中世、各国々より朝廷に納める物産を収納しておくお倉のことで、火防ぐ・盗防守護として、また、氏子が家内安全を祈願してお祀りされたものである。後世、錠の字を尉と改め、尉殿権現と称し、後、田無神社となった。」

五代宮司の賀陽瑞穂は『田無神社御遷座三〇〇年記念奉告祭誌』(7)で、田無神社の由緒について次のように解説しています。

「元の御社名のジョウ(尉)は(錠)、さらにジャウ(浄)(上)の音にも通じ、御祭神の御神徳を尊び称した深い意味が考えられる。又(殿) は貴人又はその人の住むご殿、即ち、その人を祀る意味である。田無神社の御祭神(大己貴命)は、大古国土を経営し、農業の業を創め医薬禁厭及び温泉の法を、定め給うた神で、のち国を皇孫命に捧げ奉り幽事の主宰となり給いて後も諸神を率いて、皇室を守護し、国家人民を護り給いし神様である。ご神徳の広大なことは、その御名の数多きを以っても窺い奉ることができる。亦の御名に大国主命葺原醜男神八千矛神大物主神大国魂神奇甕魂大地主神三穂津彦神兵主神国作之大神所造天下大神伊和大神等の御名がある。また世俗に福の神、縁結びの神として、崇められている。因幡の白兎を助け給いし如く、いわゆる、慈愛のその徳は、禽獣にまで及び、国土人類悉くに及んでいる。このような御神徳の偉大な力を戴いて、お祀りしたのが、その起源である。私達の祖先は、農工商を始め諸々の営みが豊穣に、和やかに、善転し壮大な生命力が、氏神から授かるようにと祈ってきた。参百年祭を迎えるに当たり、益々御神威と恩頼を戴き、幸福が授かるよう祈念する次第である。」

六代宮司の賀陽濟は『田無神社本殿の美』(8)で、田無神社の由緒について次のように解説しています。「尉殿大権現は龍神で、水と風を治める豊穣の神々(男神の級長津彦命と女神の級長戸辺命)です。同時に神仏習合の考えのもとに、尉殿大権現不動明王としても信仰されてきました。人々が武蔵野台地に位置するこの地で生きるに際して、とりわけ水を得ることがいかに大切であったかを、その信仰の姿から伺うことができます。尉殿大権現の尉(ジョウ)とは本来、水を守る神を意味しているのです。」

 決定的な資料が残っておらず、これが正解であると言い切れる結論は存在しませんが、現在では、「ジョウ」という言葉が水を意味し、尉殿権現は水と豊穣の神である可能性が高いとされています。『田無地方史研究会紀要 XIV』片桐譲氏著「神号と地名尉殿の特殊と普遍」(9)には、尉殿が水神であることを示す古文書について言及があります。

「享保期の館村(現新座市)の古文書「館村旧記」に引又宿に祀られた水神(中略)、是は尉殿権現といふ、俗に十殿といい、また、ぞうどのの権現という。」(9)

これはすなわち、尉殿権現が水神であり、「じゅうどの」「ぞうどの」などの俗称を持つことを示しています。関東近辺には、「じょうどの」「じゅうどの」「ぞうどの」「ずうどの」などと発音される地名や社が多く存在し、漢字では「蔵殿」「頭殿」「通殿」「重殿」「従殿」などの表記が見られます。これらは特に埼玉県、茨城県、群馬県に多く分布し、川べりや小水路付近に位置していることが特徴です。

『保谷市史 通史編二 古代・中世・近世』(10)では、「じょうどの」の神は用水や水利に関する御神徳を持つとされています。また、『田無地方史研究会紀要 IX』片桐譲氏著「水の女神と尉殿の祭神」(11)では、「じょうどの」は湧水の神でもあるとしています。

しかしながら、水の神であることが示唆される論文や書物が残されているにもかかわらず、「じょうどの」が水神であると断定することができない事情があります。それは、現在全国に点在する「じょうどの」神社の多くが、起源を水に持たない神々をご祭神としているからです。たとえば、東京都東大和市鎮座の高木神社は、かつて尉殿権現と称されていましたが、明治13年(1880年)に現在の高木神社となり、御祭神は高皇産霊神となりました。「じょうどの」の神は古くから地域の土着の神であり、関東地方に広く分布していました。もしかしたら、当時の人々が「じょうどの」の神に水以外のさまざまな御神徳を期待し、万能な神として崇めていったのかもしれません。そして、時代とともに、元々の水の神としての要素が薄れていったのではないでしょうか。

垂迹神である倶利伽羅不動明王は、降雨を司る水の守護神とされ、級長津彦命級長戸辺命は、風雨の順調と五穀豊穣を司る神とされています。尉殿は水の神であると伝えられています。北谷戸に鎮座していた尉殿権現社は、水に対する地域住民の祈りと感謝によって建立され、上保谷尉殿権現田無尉殿権現はその信仰を継承し、氏神神社として長年にわたり地域住民の厚い信仰を集め、大切にされてきました。明治初期の神仏分離政策を経ても、日本各地には「じょうどの」神社が現存していますが、本務社(神職が常駐する神社)として奉仕されているものは少ないのが現状です。さらに、そのほとんどの「じょうどの」神社においては、水に関する名残は失われつつあります。

幸いにも、田無神社では、水への感謝の念が根強く受け継がれており、御祭神として級長津彦命級長戸辺命を祀り、水に関する信仰の名残を留めています。私たちは、先人たちが大切にしてきた水の神への信仰を守り、数少ない「水にまつわる祭祀・伝統」を後世に継承していかなければなりません。水は、生命の源であると同時に、台風や長雨、河川の氾濫など、脅威にもなり得る存在です。

中国においては、龍が水を招き寄せ、雨や洪水を呼び込む存在と考えられてきました。日本でも、水神が龍や大蛇に姿を変え、祟りを起こすという伝承が各地に残されています。大河の流域には、川を見守り、荒ぶる水を鎮める神が祀られています。

一方、水分神(みくまりのかみ)や湧水の神は、祈雨や豊かな稔りを願うために、日本各地の水源地や湧水地に祀られてきました。そこには、天から降る雨と国土から湧き出る水に対する、感謝の念に基づく人々の祈りを汲み取ることができます。宮山周辺では湧水が見られるものの、川の流れとなるのは降雨時のみであり、恒常的に水が滔々と流れる川は存在していませんでした。地域住民は、この湧水を命の水として、日々の生活を営んできたのです。 このことから、谷戸の宮山に祀られていた神は、荒ぶる水神ではなく、地域住民に恵みをもたらす感謝の対象であったと推察されます。古尉殿権現に対する人々の祈りは、水に対する畏怖ではなく、慈雨と湧水に対する感謝に基づくものであったのでしょう。(12)

こちらの「尉殿考」では、さらに詳しく「尉殿」についてご紹介いたします。

(1)北芝久保に鎮座する稲荷神社は「トウカメ稲荷」と呼ばれています。田無神社に合祀後の昭和16年(1941年)、北芝久保に住む氏子たちの願いにより、元の稲荷神社の鎮座地に再度祀られることとなりました。

(2)田無市史編さん委員会(1990)『田無市史第4巻民俗編』精興社、pp.93-94

(3)田無市史編さん委員会(1990)『田無市史第4巻民俗編』精興社、p.98

(4)近辻喜一(1994)『田無地方史研究会紀要第XIV号』年中村入用覚帳(田無地方史研究会)p.49

(5)香月節子(1990)『たなしの歴史2』祠を祀ること(田無市企画部市史編さん室)pp.53-54

(6)東京都神社庁(1986)『東京都神社名鑑(上)(下)』凸版印刷

(7)賀陽瑞穂(1986)『田無神社御遷座参百年記念奉告祭誌』田無神社pp.20-21

(8)賀陽濟(2000)『田無神社本殿の美』武蔵野企画、pp.4

(9)片桐譲(1996)『田無地方史研究会紀要XIV(神号と地名尉殿の特殊と普遍)』とおび社、p.11

(10)保谷市史編さん委員会(1988)『保谷市史通史編二 古代・中世・近世』ぎょうせいp.647

(11)片桐譲(1989)『田無地方史研究会紀要IX(水の女神と尉殿の祭神)』とおび社、pp.40-41

(12)賀陽智之(2022)『御遷座三五〇年記念誌 写真と資料から見る田無神社』ハレル舎