西東京市立田無小学校は、令和5年(2023年)に開校150周年という節目を迎えました。これを記念し、初代校長である刑部真琴おさかべまことをご紹介いたします。
明治6年(1873年)、全国的な学校制度の導入に伴い、横浜より刑部真琴を教員として招聘し、密蔵院において、田無小学校の前身である「真誠学舎」を開校しました。
刑部真琴は、武蔵国に生まれた士族の子弟で、幼少より漢学や書を学び、幕府の陸軍附属取調役を務めた後、静岡県で教職に就き、さらに数学の修業を積むなど、優れた教育者でした。
その後、「真誠学舎」は明治8年(1875年)には「田無学校」と改称され、明治16年(1883年)には新校舎が建設され、刑部真琴が初代校長に選ばれました。以降、時代の流れに沿って「田無尋常高等小学校」「田無国民学校」と校名が変遷し、戦後の昭和22年(1947年)に現在の「田無小学校」となりました。
昭和3年(1928年)、有志の手により、田無小学校に初代校長・刑部真琴の銅像が建立されました。本祝詞は、その銅像建立5周年に際して、田無神社第4代宮司・賀陽賢司により作文されたものです。
祝詞の中では、刑部真琴の生い立ちに始まり、田無町との深い関わりを持った教育者としての生涯、そして帰幽に至るまでの足跡が述べられ、多くの人々から尊敬を集めた人物であることが記されています。また、その人柄についても言及されており、「常に身持ち厳しく、礼儀正しかった」と品行方正で礼節を重んじる人物であったことが記され、「生来、話すことは得意ではなかったが、文章を読み解く力は群を抜いていた」と、その卓越した読解力にも触れられています。

刑部真琴銅像除幕式記念祝賀会祝詞 昭和8年(1933年)
刑部真琴銅像除幕式記念祝賀会祝詞 昭和8年(1933年)

日露戦役記念碑

日露戦役記念碑は日露戦争を記念し、明治40年(1907年)に教育者・刑部真琴により建立されました。碑文の揮毫は、日露戦争における元帥陸軍大将・満州軍総司令官であった大山巌によるものです。日露戦争では田無村から71人が出征し、3人が戦死、68人が凱旋帰国しました。出征者71名のうち、70人が陸軍、わずか1人のみが海軍だったと伝えられています。碑の裏面にはその氏名が刻まれており、田無小学校初代校長・刑部真琴によって後世に伝えられることとなりました。刑部真琴は阿波洲神社拝殿に掲げられている凱旋記念扁額にも保谷出身従軍軍人の名を刻んでいます。

日露戦役記念碑
日露戦役記念碑

田無尋常高等小学校高等科の移転工事

田無尋常高等小学校高等科の移転工事は、大正13年(1924年)8月に着工されました。この祝詞は、同年11月20日に斎行された上棟祭において奏上されたものです。工事は大正14年(1925年)3月31日に竣工し、同年4月22日に落成式が挙行されました。『東京都田無市立田無小学校創立百周年記念誌』(1)によれば、工事費は101,195円であったと記されています。
『写真で見る わがまち西東京-懐かしのふるさと150年』(2)には、田無尋常高等小学校高等科について、次のような記述があります。
「明治後期から児童数が増加し、何度も増築を繰り返したが、老朽化も進んだため、大正期になると新校舎建築が計画された。大正3年、町議会の議決により、予算の中から毎年建築費を積み立てることとなった。その建築費は寄付金と合わせて田無銀行に預けられた。関東大震災後の資材高騰の中、念願の新校舎は大正14年に現在地に落成し、移転した。」

(1)田無市立田無小学校(1974)『東京都田無市立田無小学校創立百周年記念誌』教育出版p.45

(2)神津良子(2015)『写真で見る わがまち西東京―懐かしのふるさと150年』株式会社郷土出版社p.22