祈雨祭祝詞 大正2年(1913年)斎行
祈雨祭祝詞 大正2年(1913年)斎行

田無に用水が引かれたのは、元禄年間(1688~1704年)のことでありました。田無用水は、玉川上水から分水し、芝久保を経由して橋場にて二手に分かれ、それぞれ田柄川および石神井川へと注ぎます。昭和期に入り水道施設の整備が進むと、生活用水としての田無用水の役割は終焉を迎え、昭和40年(1965年)頃にはコンクリート製の蓋で覆われ、現在の遊歩道となりました。暗渠化されたことにより、江戸時代から約300年にわたり続いた水路の流れる風景は失われてしまいました。

田無神社の参道に架かる神橋は、田無用水がかつて河川であったことを示す、貴重な遺構であります。『東京都田無市立田無小学校創立百周年記念誌』(1)には、田無用水に関する以下の記述が掲載されておりますので、紹介いたします。

「この校舎は、田無用水の上に建てられた。当時から、この用水は生徒の手洗い、飲料水、清掃などの重要な水資源であった。用水にはフナ、ドジョウ、ゲバチ、ハヤなど泳いでいたので、子ども達のよい遊び相手であった。」

田無用水は、人々に水を提供するのみならず、人と自然とが触れ合う場としても機能しておりました。元禄年間に玉川上水から田無用水が分水されたものの、水不足は依然として深刻な課題でありました。長期間の日照が続いた際には、祈雨祭の神事に用いるため、氏子代表者が御嶽神社を訪れ、御岳の滝水を持ち帰ったと伝えられています。(2)その後、持ち帰った水を用いて祈雨祭の神事が執り行われ、最後に田無神社の御神木に水をかけ、降雨が祈願されました。祭礼が重ねられるにつれ、いつの頃からか、二基の獅子頭が神輿に載せられ、町内を隈なく巡幸して慈雨を乞う祭儀へと変遷していきました。祈雨祭は、戦後に「天気祭」へと名称を改めて存続しましたが、次第に行われなくなりました。ここで言う御神木とは、本殿に向かって右手に切り株として残る杉の木であります。また、上保谷・下保谷においても雨乞い祈願のため、御嶽山から水を持ち帰る代参の講が組織されておりました。持ち帰った水を用いて、下保谷では天神社で雨乞い神事が、上保谷では尉殿神社で神輿の渡御が行われました。

橋場での雨乞い神事の様子
橋場での雨乞い神事の様子

下田富宅著『田無宿風土記(二)』(3)には、当時の祈雨祭に関する詳細な記述が掲載されておりますので、以下に紹介いたします。

「天然の良い水源がない田無では、日照りを恐れました。日照りが続いて、農作物に被害が出始めると、奥多摩の御岳神社へ、お水頂戴の代参が出ました。鉄道のなかったころは、それこそすべて歩きで、朝暗いうちに田無を出発して、御岳山の登り口ヘたどり着くのは夕方で、真暗闇の中を、手さぐり同然で山道を登りました。駅が御岳に出来たのは、昭和四年なので、それまでは青梅で汽車を降りて歩きましたが、大正10年ごろからは、自転車に乗れる人は、これをよく利用したようです。なんでも、文明開花の田無には、明治のころ既に、4台も自転車があったとのことで、自転車で行くと、4、5時間で御岳山の下へ沿いたものだそうです。帰りは、小平の小川橋あたりまで、迎えの者が出向いていて、頂いて来たお水の引き継ぎをしました。孟宗竹の一節ぐらいに、御岳山の七重の滝の水を頂いて、杉の枝に結んで持ち帰るのですが、帰りに、寄り道をしたり、休んだりなどすると、水がそちらの方へ、行ってしまうといわれ、代参の役も、なかなか大変でした 。お水が田無へ着くと、まず橋場でお祓いをし、どうか、慈雨が一日も早く降りますようにとお祈りをして、お水の一部を田無用水へ流し、あとを、樹齢300年と伝えられる田無神社の御神木の、杉の大木にかけ、境内を流れていた用水に流したものです。そして田無用水をせき止めて、水をかぶって「みそぎ」をした人々が、雲を起し雨をよぶ竜神様を招くために、雨乞いの獅子頭を輿に乗せて町中を夕方まで練り歩きました。神輿を担いで錬り歩くのは、大体一日限りで、それでも未だ雨が降らないと、また、改めて雨乞いの代参が出掛けました。霊験があって、雨が降ると御礼参りがありました。」

(1)田無市立田無小学校(1974)『東京都田無市立田無小学校創立百周年記念誌』教育出版p.39

(2)田無市立中央図書館(1985)『田無神社(2)』とおび社p.42
ここで言う御嶽神社とは武蔵御嶽神社のことであり、東京都青梅市の御岳山山頂に鎮座する神社です。

(3)下田富宅著(1978)『田無宿風土記(二)』千曲秀版社p. XIII

雹祭は、正式名称を「五穀豊穣春祭・雹祭」と改称し、毎年4月の総代会において祭日が決定されます。祭典では、五穀豊穣祭祝詞および氷雨祭祝詞が奏上されます。雹祭の起源については、明治41年(1908年)および昭和10年(1935年)に発生した大規模な雹害のいずれかを契機とする、二つの説が存在します。田無市立中央図書館発行の『田無神社(1)』と下田富宅氏編著の『田無宿風土記(三)』に雹祭の記述があるので紹介します。

「明治42年(1)の6月頃、突然大雹乱に見舞われ、農作物に大きな被害が生じ、田無神社で、おくれ霜や雹の害のないことを祈願する雹祭りが始まったと古老は語るが、その始まりについては確かでない」(2)

「田無役場から農家へ押し麦を一斗ずつお見舞いとして配られました。現在は群馬県の榛名神社に雹除けの神として毎年講中の方々が代参に4月8日前後に今でも行きますが、明治43年6月10日(3)の玉子大の雹が降ったのを思いだして代参の当日は、玉子は食べない事にしてお参りに行くそうです。又5月22日は農家の仕事が忙しいので、田無神社では、1月早く4月22日に田無農協主催で雹祭を行っています。」(4)

氷雨祭祝詞
氷雨祭祝詞

当該祝詞は、保存状態から推察するに、戦前のものである可能性が高いと考えられます。氷雨とは、雹およびあられを指す語であり、雹は氷粒の直径が5mm以上、霰は5mm未満と定義されます。これらの降雹現象は、主に5月から8月上旬にかけて発生しやすく、多くの作物の生育期と重なる時期に当たります。

(1)実際には、明治41年(1908年)に発生

(2)田無市立中央図書館(1984)『田無神社(1)』とおび社p.38

(3)実際には、明治41年(1908年)に発生

(4)下田富宅著(1982)『田無宿風土記(三)』千曲秀版社p.211

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節分追儺祭

節分の日には、社務所の入口に柊の枝にいわしを刺して飾り、鬼祓いを行います。昭和後期までは、境内の各所に「伊邪那岐神、伊邪那岐命」と書かれた短冊を桃の枝に取り付けて祀る「鬼避けの神事」が行われておりました。
午前中には、地域の保育園や幼稚園の園児たちが舞殿から豆撒きを行います。午後3時からは、災いを祓い、一年の幸せを祈るとともに、春の訪れに感謝する「節分追儺祭」が斎行されます。
この祭典では、弓の弦を引き音を鳴らして邪気を祓う神事「鳴弦の儀」が執り行われます。
社殿で祭典を執り行った後、社殿の回廊から神職らが豆打ち神事を行います。
以前は、特設の櫓を設け、一般参拝者向けの豆撒き会も実施しておりましたが、令和2年(2020年)を最後に、この行事は行われておりません。

〜焼きこがし〜
昭和50年(1975年)発行の『たなしのむかし話』に節分の焼きこがしについての記述があるので紹介します。
「浜野 ああ虫こがしのことか。大豆の枝にメザシの頭を突き刺しては炉端で『アワの虫もチーリチリ』なんてつばひっかけて真黒に焼いたもんだ。それをヒイラギの枝と一緒にして入り口に突き刺しとくんだ。炉はないけど今でもやるな。」(1)

令和3年(2021年)6月に氏子向けに実施した「田無神社についてのアンケート」(2)によると、53名の回答者のうち、18名が現在でも「焼き焦がし」を行っていると回答しました。また、過去に行っていたと回答した方は5名でした。

以下に、アンケート調査票に記載された「焼き焦がし」の具体的な方法を紹介いたします。

  • 「本来はメザシを大豆の枝に刺すのだが、現在では、割りばしに刺し、ヒイラギの枝と共に家の周りにお供えする。」
  • 「メザシの頭を焼いて、ヒイラギの枝に刺して戸口にお供えする。」
  • 「枝豆の木を干して、イワシの頭を刺し、ヒイラギを添える。それを各入口に貼る。」
  • 「ヒイラギの枝にメザシの頭を刺して焼き、それを家の外に括り付ける。」
  • 「メザシの頭を落とし焼いて、ヒイラギの枝に刺し、鬼が入ってこないように、あちこちに刺す。」
  • 「ヒイラギに焼いたメザシの頭を刺し、玄関前に飾る。」
  • 「メザシの頭を突き刺して焼き、ヒイラギの枝と一緒に家の四方に設置する。」
  • 「メザシの頭を笹竹に刺し、畑の虫も『ジーリジリ』と唱えながら焼き焦がし、ヒイラギの枝と共に軒下に飾り、豆まきを行う。」
  • 「大豆の枝にメザシの頭を突き刺し、ヒイラギの葉・枝と共に自宅や会社の出入り口の壁にお供えする。」
  • 「ヒイラギの枝にイワシの頭を刺し、玄関と裏口に設置する。大豆(煎ったもの)を一升枡に入れて神棚に供え、節分を祈願し、歳の数だけ頂く。」

(1)田無市(1975)「たなしのむかし話 その1 田無の年中行事を中心に」市長室広報課p.28

(2)賀陽智之(2022)『御遷座三五〇年記念誌 写真と資料から見る田無神社』ハレル舎p.69-71

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初午祭

2月最初の初午の日は、野分初稲荷神社および賀陽家屋敷稲荷神社の例祭日です。午前10時に野分初稲荷神社の社殿前で初午祭が斎行された後、場所を移して賀陽家屋敷稲荷神社前にて祭典が執り行われます。この初午の日には、氏子や崇敬者によって稲荷旗が奉納されます。
戦前の田無では、二の午の日に屋敷稲荷神社の飾り始めを行う家庭が多かったと伝えられています。その年の「稲なり(稲作の出来具合)」が良好であることを祈願し、家の屋敷稲荷神社の前でメザシと赤飯を食し、五穀豊穣および家内安全を祈念しました。
令和3年6月に氏子向けに実施した「田無神社についてのアンケート」(2)によると、53名の回答者のうち、12名が現在でも初午の日にメザシと赤飯を食べると回答しています。
初午は、京都の伏見稲荷大社の御祭神である宇迦之御魂神が、伊奈利山に降り立った日とされています。この日は、和銅4年(711年)2月7日の午の日であったと伝えられています。従って、初午は毎年、2月最初の午の日に行われ、稲荷信仰において重要な日とされています。この日に行われる祭りは、稲荷神社への信仰の篤さと、農業や商業の繁栄を祈願する意味が込められています。

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紀元祭

2月11日午前10時より、紀元祭が斎行されます。紀元祭は、日本の建国を祝う重要な祭典です。初代神武天皇が日本の地を平定し、橿原宮で即位された日を記念するものであり、その即位日が「辛酉年春正月庚辰朔」にあたることから、現在の暦に合わせて2月11日が紀元日と定められました。この日、神武天皇の即位をお祝いし、日本の建国の歴史を改めて心に刻むとともに、国の繁栄と平和を祈念いたします。

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祈年祭

祈年祭は、2月17日午前10時より社殿にて斎行されます。この祭りは「としごいのまつり」とも呼ばれ、「とし」とは稲を意味します。稲の種を蒔く季節の初めにあたり、その豊穣を祈願する重要な神事です。稲は、古来より日本人にとって生命の源であり、一粒の米にも神様の御霊が宿ると考えられてきました。

全国の神社では、2月初旬から4月後半にかけて、稲の豊作を祈る祈年祭や春祭りが斎行されます。神社でお供えされる神饌には、米、餅、酒など「米」に由来するものが欠かせません。宮中においても、天皇陛下が自ら水田で田植えを行い、収穫された新穀は伊勢神宮の神嘗祭や、宮中の新嘗祭にお供えされます。

田無神社では、2月17日午前10時に祈年祭が斎行されます。また、尉殿神社では同日午後1時、天神社では午後2時、阿波洲神社では2月18日午後2時に、それぞれ祈年祭が執り行われます。

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天長祭

天長祭は2月23日午前10時に社殿で執り行われます。この祭典は、天皇陛下の御誕生日をお祝いして、陛下のご長寿と皇室の弥栄および国の安泰をお祈りするお祭りです。

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6月30日は、夏越の大祓の日であります。この祭りは、罪や穢れを祓うための神事であり、神職と参列者が声を合わせて「大祓詞」を奏上した後、神職が先導し、茅の輪くぐりの神事を行います。

その後、斎場を焚上場に移し、鎮火祭(ちんかさい)が執り行われます。鎮火祭は「ほしずめのまつり」または「ひしずめのまつり」とも呼ばれ、火の恵みに感謝し、その力が荒ぶらないよう祈念する祭りです。田無神社においては、鎮火祭は大祓に用いた人形を焚き上げる前に斎行されます。

参道の茅の輪は、例年6月初旬から6月30日までの期間、設置されます。

夏越の大祓動画(※注意・音声が流れます)

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色とりどりのてるてる坊主が飾り付けられた「七夕てるてるトンネル」は、6月中旬から7月中旬まで、田無神社境内に設置されます。

平成26年(2014年)から平成30年(2018年)までは、竹と笹によるトンネルが境内に設置されておりましたが、令和元年(2019年)より、この時期が梅雨にあたることから、トンネルにてるてる坊主が飾られるようになりました。

七夕てるてるトンネルは、御祭神である級津彦命・級戸辺命に感謝を捧げ、台風や雨風などの災害なく、農作物が順調に成長することを祈念して設置されるものです。参拝者は、てるてる坊主の短冊に願いごとを記入し、トンネルに結びつけることができます。「てるてる短冊」には顔を描き、皆様のお願いごとをお書きいただき、トンネルに結びつけてください。てるてる短冊は、田無神社のおみくじ処にて一枚300円で頒布いたします。

七夕てるてるトンネル動画(※注意・音声が流れます)

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津嶋神社の神輿は、かつては7月15日の津嶋祭に合わせて渡御しておりましたが、現在では、7月第2週の土曜日を宵宮、日曜日を本宮と定め、本宮の日に神輿が担がれるようになっております。

宵宮の午後6時には、柳沢集会所に鎮座する津嶋神社において、宵宮祭・出御祭が斎行され、その後、御旅所にて入御・動座祭が執り行われます。

本宮の正午には、柳沢ガード下付近で発輿・神幸祭が斎行され、津嶋神輿が出御いたします。その後、津嶋神輿は田無神社に立ち寄り、境内の津嶋神社前にて天王祭が斎行されます。

神輿は柳沢地区(田無1区)を巡行し、午後6時には柳沢集会所に鎮座する津嶋神社にて還幸祭が斎行されます。

昭和中頃までは、一区の津嶋神社の神輿と二区の天王様の神輿とが、それぞれの神輿に祀られた鳳凰を奪い合う「喧嘩神輿」が行われておりました。

この喧嘩神輿は、現在の下田邸(旧田丸屋)と浜中米店の間付近で対峙したと伝えられております。下田富宅著『田無宿風土記(二)』には、当時の様子が次のように記されております。

「これを担ぐ若い衆のエネルギーが、一度きに発散するような、まことに勇壮なものでした。祭りが済んだ後々の、幾日もの間、よく勇ましい若者のことが、人々の話題になりましたし、そのような噂の主になることを、若者は誇りにしたものです」

『田無市史第四巻 民俗編』には、喧嘩神輿に関する記述がございますので、ここに紹介いたします。

「7月15日は休日であり、昭和30年頃まで喧嘩神輿は行われていたが、神輿の担ぎ手がなくなりやめてしまった。明治の末頃まで5区にあった八坂神社にも神輿があり、天王様の祭りの日には1区、2区、5区の神輿が石神井川をはさんで喧嘩で賑わった」

戦時下の津嶋祭

大正15年 津嶋神社敬神会記念撮影
大正15年 津嶋神社敬神会記念撮影

田無神社境内末社の津嶋神社の大祭は、かつて田無2区「津島神社敬神会」が担当しておりました。「神社功労者表彰申請書」には、昭和敬神会会長・野口秋太郎氏、副会長・小山壽平氏を称える旨が記載されています。

神社功労者表彰申請書
神社功労者表彰申請書

文中には、戦時下において「津島神社敬神会」の会員が減少し、お神輿の渡御や祭礼も縮小するなかにあっても、両氏が中心となり、私財を投じて「津島神社敬神会」を「昭和敬神会」と改称し、新たに会則を制定して神社の隆盛に尽力したことが記されています。

昭和敬神会会則
昭和敬神会会則

田無1区の津嶋祭は「天王祭」として、毎年7月第2週の日曜日に斎行され、現在も神輿の渡御が行われておりますが、田無2区の「津嶋祭」は残念ながら途絶えてしまいました。

向台の大太鼓

令和5年 津嶋祭
令和5年 津嶋祭

令和4年(2022年)より、津嶋祭の本宮において、津嶋神輿が境内に進む際、田無5区および6区の向台大太鼓が先導し、参道を清める役割を担っています。向台大太鼓の綱は、田無5区および6区の氏子によって引かれ、一の鳥居から北参道まで進みます。

向台大太鼓は、向台地区の氏神であった八坂神社(明治43年、一村一社の合祀令により田無神社に合祀)の天王祭において使用されていた太鼓です。戦時中、空襲によって八坂神社跡地の倉庫から焼き出され、新井家(現・田無神社総代)の蔵に保管されました。その後、昭和末期に尾林家(現・尾林造園)の蔵に移され、巡幸などの行事は行われることなく、長らく時が経過しました。

令和3年、田無神社奉賛会の小林孝幸氏をはじめとする皆様のご奉仕により、株式会社浅野太鼓楽器店において台車が新調され、太鼓革も貼り替えられ、見事に蘇りました。

以前までの曳き車
以前までの曳き車

境内において、柳沢津嶋神社の神輿渡御を向台大太鼓が先導し、田無神社境内で両者が邂逅する様子は、祭りに新たな彩りを添えています。

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令和3年 お人形感謝祭
令和3年 お人形感謝祭

〜お人形・ぬいぐるみに感謝の気持ちを込めて〜
日本では、古来よりお子様の成長を祈念し、3月には雛人形を、5月には鎧・兜や五月人形を飾る風習がありました。しかし近年では、お子様の成長や住宅事情の変化などにより、従来のようにお飾りをすることが難しくなってきております。

また、お人形に対する愛着や、「お顔のある人形には魂が宿る」という古くからの考え方に基づき、ゴミとして処分することに抵抗を感じられる方も多くいらっしゃいます。

そこで田無神社では、お預かりしたお人形を並べ、祝詞を奏上して感謝の意を捧げる「お人形感謝祭」を、毎年8月第1日曜日に執り行っております。

令和4年 お人形感謝祭
令和4年 お人形感謝祭

お預かりしたお人形は、「お人形感謝祭」斎行後、神社において責任を持ってお焚き上げなど適切な方法で処分いたします。

神事:令和8年8月2日(日)午後2時斎行

【受付期間】
当日=令和8年8月2日 (日)と
事前受付期間=7月25日(土)〜8月1日(土)に
神社へお持ちください。
※当日の受付時間:午前9時~午後1時45分頃まで
事前受付時間:各日とも午前9時~午後5時まで

【お預かりできるお人形の例】
ひな人形・五月人形・こけし・羽子板・ぬいぐるみ・かぶと・よろい人形など
(お願い)台座など取り外せるものはできるだけ取り外してお人形のみをお持ちください。

令和3年 お人形感謝祭
令和3年 お人形感謝祭

【お預かりできないものの例】
ダルマ・仏像・宗教に関する造形物・段飾りの段・ガラスケース・その他付属品など
お人形以外のもの(かぶと・よろい人形以外の目のないもの) はお預かりできません。

【初穂料】
当日は、どなた様でもご参列いただけます。どうぞお人形をお持ちいただき、ご参列ください。 一箱(70cm×45cm×45cmの箱に収まる量)につき5,000円の初穂料をいただきます。

  • 量を測るダンボール箱は神社にてご用意しております。
  • お人形を神社にお持ちいただく際、箱は必要ございません。
  • このサイズの箱からあふれる場合には、追加の初穂料として3,000円をお納めいただきます。

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令和2年 酉の市
令和2年 酉の市

11月の酉の日に、社殿にて大酉祭が斎行されます。酉の市は、大鳥神社の祭神である日本武尊が、東夷征伐の戦勝祈願を行い、帰還の際にお礼参りをしたことに由来し、日本武尊の命日とされる11月の酉の日に行われるようになりました。酉の市は、江戸時代から続く年中行事であり、鷲神社にその起源があるとされています。

田無神社では、御祭神である日本武尊・大鳥大神を、昭和24年(1949年)に大阪市の大酉神社より本殿に勧請いたしました。現在では、「おとりさま」と称され、商売繁盛の神様として広く信仰を集めております。

酉の日当日、夕刻より、神職が境内にて熊手業者の熊手を祓い清め、神酒をいただきます。その後、午後7時からは舞殿にて田無囃子や太鼓の演奏が奉納され、さらに午後9時頃には大酉祭が厳粛に斎行されます。

平成20年 酉の市
平成20年 酉の市

熊手は「福をかきこむ」とされる縁起物であり、社運隆昌や商売繁盛を願う事業主などが、毎年求め、社屋などに飾られます。

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