令和7年(2025年)、終戦から80年という節目を迎えるにあたり、田無神社では、これまで境内の各所に保管されてきた資料を見直し、その中から戦争に関する歴史資料の一部を「神社と戦争」としてWeb上で公開いたします。この取り組みは、戦争の悲惨さや当時の生活の実態を、未来を担う世代へと伝えていくことを目的としています。
なお、資料保護のため、Web上での資料や祝詞の閲覧は一部制限しておりますので、ご了承ください。
これらの資料には、戦時下における神社の役割や当時の様子が記録されています。資料からは、人々が神社に祈りを託し、国家や地域とともに困難に立ち向かおうとした時代の空気が伝わってきます。信仰や祈りもまた、そうした歴史の流れの中にありました。
戦争がもたらした悲しみや苦しみに直面しながら、祈りを捧げ続けた人々の姿を今に伝えることは、平和の大切さを再確認する大きなきっかけとなるはずです。田無神社が果たしてきた役割、そして当時の人々の思いに、心を寄せていただけましたら幸いです。
「太平洋戦争(大東亜戦争)」の項で紹介している『社掌(宮司)に招集令状』の資料には、当時の田無神社社掌(宮司)・賀陽賢司に召集令状が届き、田無神社の例祭日に出征することが記されています。日々の務めを抱える中で、どのような思いを胸に戦地へ向かったのかを想うと、胸が締めつけられる思いがいたします。
終戦後に賀陽賢司宮司によって戦争に関する資料の大部分がお焚き上げされたと伝えられています。今回の調査により、その背景には、「戦後の神社」の項で紹介している『GHQによる「必勝札・武運長久札」等の廃棄の指示』に見られるように、札類の廃棄が求められたことが判明しました。このことからも当時の価値観が大きく転換していった様子がうかがえます。興味深いことに、終戦までの資料は整理されている一方、終戦後の資料のいくつかは、この資料を含め、封筒に入ったまま段ボールの下敷きになっているものも見つかりました。こうした保管のされ方からも、時代の変化と、その中で抱えていた複雑な心情の一端が感じられます。
当時の田無地域は軍需工場が集まる重要拠点であり、戦火の影響を大きく受けました。昭和19年(1944年)11月24日には、中島飛行機武蔵製作所がB29の爆撃を受け、大きな被害を受けます。この爆撃は東京を標的としたB29による最初の空襲ともいわれています。昭和20年(1945年)に東京大空襲が始まると、田無地域への空襲は一層激しさを増していきました。4月12日には、爆撃の標的が大きく外れ、1トン爆弾が田無駅前などの市街地に落とされ、100人を超える犠牲者を出す惨事となりました。そして終戦間際の7月29日、西武柳沢駅南側にも大きな爆弾が投下されます。後年の調査により、この爆撃は原子爆弾投下の訓練として全国50か所で実施された作戦の一環であったことが明らかになっています。こうして記録をたどると、田無神社とその周辺地域が、戦時下の日本においてどれほど深く戦争と関わり、また多くの苦難を経験してきたかが浮かび上がります。これらの歴史を今に伝えることは、過去を知り、平和の尊さを未来へつなぐために欠かせないことでしょう。
令和4年(2022年)に刊行された御遷座三五〇年記念誌『写真と資料から見る田無神社』(1)は、田無神社の長い歴史を、貴重な写真や資料を通して振り返る構成となっています。なかでも第8章「神社と戦争」では、田無神社と戦争の関わりについて、当時の祝詞や関連資料を紹介しています。誌面の都合により掲載できなかった資料や祝詞の一部については、後に発行された『田無神社社報 第40号・42号・43号・44号』(2)にて補足的に紹介いたしました。これらは、戦時中に奏上された祝詞や、当時の社会背景を反映する文書などであり、いずれも貴重な歴史的記録です。本稿では、記念誌および社報に収録された資料の中から特に重要と思われるものを厳選し、あわせてその後の調査で新たに発見された資料についてもご紹介いたします。
(1)賀陽智之(2022)『御遷座三五〇年記念誌 写真と資料から見る田無神社』ハレル舎 pp.258-281↑
(2)賀陽智之(2024-2025)『田無神社社報 40号』『田無神社社報 42号』『田無神社社報 43号』『田無神社社報 44号』↑





