養蚕絵馬と奉納板

田無で養蚕が行われ始めた時期は明確ではありませんが、明治から大正時代にかけて最盛期を迎えたとされています。

田無神社には、養蚕に関連する絵馬が6点と、繭玉の奉納板が3点保存されています。昭和50年代には、当時の田無神社宮司であった賀陽賢司氏が、田無市郷土資料館に養蚕絵馬2点を寄贈しました。現在、寄贈された養蚕絵馬2点は、西東京市郷土資料室(芝久保町)に所蔵されています。田無神社に現存する絵馬6点と、資料室に所蔵されている絵馬2点には、いずれも木の枝に蚕の繭を作らせ、上蔟(じょうぞく)させる様子が描かれており、当時の養蚕技術を窺い知ることができます。

日本各地の社寺には、明治期から大正期にかけて奉納された絵馬が多数保存されていますが、養蚕に関する絵馬は特に貴重です。これらの絵馬からは、当時の人々の服装や家の様子、養蚕技術などを把握することができます。

養蚕は、当時の田無の産業の基盤であり、田無の歴史を語るうえで欠かせない重要な要素です。養蚕絵馬や繭玉の奉納板が再評価され、文化財として指定され、公的に保護されることを強く願っています。

「国籏壱對」の板に記載されている18名は、当時「雷印」という生糸を使用して市場に卸していました。この中で、小山金右衛門は中心的な人物でした。

拝み絵馬

絵馬の起源は、神様に神馬として生きた馬を献上する古代の風習にあるとされています。元来、絵馬には文字どおり馬の絵が描かれていましたが、次第に馬以外の絵も描かれるようになり、現在のようにさまざまな種類の絵馬が生まれました。祈る人物の姿を描いた「拝み絵馬」は、一般的な絵柄であり、日本各地の神社で奉納されてきました。拝み絵馬は、地域における人々の信仰の姿を明らかにするとともに、当時の生活・習俗・文化の様子を窺い知るうえでも貴重な資料となっています。

田無神社に奉納されている拝み絵馬には、その内容において多様性が見られます。社殿が描かれている作品が多く見られることから、田無神社への奉納絵馬であることが一目で分かり、そのことは絵馬の文化的価値の高さを示していると言えるでしょう。 女性のみが描かれた拝み絵馬は、子宝祈願を意図するもので、男性が描かれた拝み絵馬は、妻の安産祈願や自身の成人を祝賀する意味合いを持つとされています。また、親子が並んで描かれた絵馬は、子どもの無事な成長を祈念して奉納されたものと考えられます。さらに、軍服を着用した兵士が描かれた絵馬は、出征前の安全祈願や武運長久祈願を目的としたものとされています。

その他の絵馬

その他の絵馬1

天之瓊矛(あめのぬぼこ)
天之瓊矛あめのぬぼこ

男女の神々がそれぞれ描かれ、長い矛を手に持ち、舞っているように見えることから、この絵馬の題材は「天之瓊矛」である可能性が高いと推察されます。

「天之瓊矛」とは、伊邪那岐命と伊邪那美命が天浮橋に立ち、矛で渾沌とした大地をかき混ぜた結果、矛から滴り落ちた液体が積もって淤能碁呂島となり、そこを起点に大八島(日本列島)や神々を生み出すという、国産みの神話に関連するものです。この神話は、『古事記』では「天沼矛」と記され、『日本書紀』では「天之瓊矛」と表記されています。

その他の絵馬2

大砲運搬図
大砲運搬図

サイズ:910mm×1518mm この絵馬は、日露戦争直前の時代背景を色濃く反映しており、大砲が描かれています。半被を着用した男性たちが、お台場へ大砲を運搬する様子が描写されています。現在、この絵馬は拝殿の入り口に展示されています。

その他の絵馬3

薙刀と刀

ここに紹介する薙刀および脇差は、田無神社初代宮司である賀陽濟の父、賀陽玄雪の妻が備前国より持ち帰ったものと伝えられています。また、神宮参拝記念御神刀は、田無神社の総代であった村田利夫氏により、平成26年(2014年)に奉納されたものです。

選挙粛正運動宣誓書

昭和10年(1935年)、岡田啓介内閣において選挙粛正委員会令が発布されました。選挙粛正運動の標榜は、「法に基づく公正選挙の実現と投票率向上」でした。この選挙粛正運動において、町内・部落単位の「懇談会」が積極的に活用され、国民の末端に至るまで政策を浸透させる経路が確立されました。

粛正運動の総括として、地元(地域)の神社において宣誓式・祈願祭が斎行されました。田無神社に現存する宣誓書は、人々が選挙に際し清廉な投票を志向していたこと、および町内会を通じた政策浸透経路が確立されていたことを示す貴重な史料です。

宣誓書は、粛正祈願祭に際して木箱に丁重に収められ、田無神社によって厳重に保管されています。

昭和10年(1935年)12月22日に斎行された第一回粛正祈願祭は、翌昭和11年(1936年)2月に施行された第19回衆議院議員総選挙に向けて行われたものです。当時の東京府の標語は「正しき一票皇国の栄」「模範選挙は東京から」でした。また、昭和10年(1935年)12月15日より7日間は第一次強調週間と定められ、衆議院議員総選挙に向けて全国的に選挙粛正運動が実施されました。

昭和11年(1936年)5月7日に斎行された第二回粛正祈願祭は、同年6月に施行された東京府会議員選挙に向けて行われたものです。田無町の選挙粛正実行委員会は、町内の有力者30名によって組織されました。

平成3年から平成7年にかけて全4巻が刊行された『田無市史』は、田無の歴史を論述する上で不可欠な史書ですが、「選挙粛正運動」に関する記述は存在しません。

ただし、『田無市史第三巻 通史編』のコラム(1)には、普通選挙法成立前後の田無町における選挙状況が詳細に記述されていますので、このコラムを抜粋して紹介いたします。

ひとこま 田無町と選挙(1)

田無町役場の収入役を長くつとめた下田富三郎の日記には、選挙への取り組みが盛んで、しばしば過熱した田無町の様子が記されている。1920年5月の衆議院選挙では「町中活気ヲ呈セリ」、「各候補者ノ運動激励ヲ極ム」とあり、1924年5月の衆議院選挙でも、候補者の演説会に聴衆が多くつめかけ、「頗ル盛会」であった。1924年の選挙当日(5月5日)には、選挙会場の役場前に候補者の運動員が陣取り、投票狩りに熱中し、警官が警戒して「頗ル緊張裡」にあったという。ちなみに当日は、有権者196名に対して188名が投票し、95.9パーセントの投票率であった。

 府会議員選挙でも同様の事態がくりひろげられた。1919年9月の選挙では、「各候補者運動員不眠不屈ニテ各有権者を駆ケ廻」り、1924年6月の選挙は、「自動車ニテ宣伝ボースタ散紙配付叮頭戦ニテ競争激烈ヲ極」めた。投票翌日の6月11日、会場になった総持寺には、政友会・憲政会両派の運動員が朝早くから続々つめかけ、発表掲示の前から「群衆押寄セ殺気充満」し、得票の経過発表ごとに両派応援団からどよめきが出るほどだったという。

 25歳以上の男子全員に選挙権があえられた普通選挙になると、その取り組みはいっそう過熱した。衆議院第一回の普通選挙にあたる1928年2月には、演説会に多くの人が集まり、ポスターや文書で「運動激烈ヲ極」めた。この時の有権者は681名に増加し、投票数は601名で、投票率88・3パーセントであった。またその年の6月におこなわれた普通選挙第一回の府会議員選挙は、「未曽有ノ激戦」といわれた。

 1925年の町会議員選挙は、正確な意味での普通選挙ではなかったが、選挙制度の改正にともない田無町の有権者は200名程度から480名へと一挙に2倍以上に増加した。そのため選挙は「激烈」であり、定員12名に対して、14名が立候補した選挙戦は「各組ノ争奪戦」として展開した。投票者は472名、投票率は98.3パーセントときわめて高く、その結果、町会議員の構成は、前議員6名に対して新議員も6名当選した。選挙の過熱と有権者の拡大が新議員を多く誕生させることになったと考えられよう。

(1)田無市史編さん委員会(1995)『田無市史第3巻通史編』精興社 pp.770-771

「第二回粛正祈願祭」下田正一町長の宣誓書
「第二回粛正祈願祭」下田正一町長の宣誓書

下田正一氏は、昭和10年(1935年)3月9日に、45歳で町長に就任しました。文中にある「冥鑑」とは、人知れず神仏が衆生を見守っていることを指し示す言葉です。

1番組から10番組の宣誓書
1番組から10番組の宣誓書

各番組ごとに2名の町議会議員を選出するために、区(番組)割された地域は、「1~10番組」として、現在では「1~10区」として田無の街にその名を残しております。

宣誓書が収納された木箱
宣誓書が収納された木箱

その他

その他1

賀陽玄雪像と鞘堂
賀陽玄雪像と鞘堂

江戸時代の名工、嶋村俊表は社殿の造営後、賀陽玄雪像を制作したとされています。この賀陽玄雪像は、田無神社初代宮司である賀陽濟によって揮毫されたものです。

その他2

「開梆(かいばん)」
開梆かいばん

開梆は禅宗において使用される鳴物であり、一般的には時報のために用いられます。田無神社における開梆の歴史は古く、伝承によれば、江戸時代には既に神社に存在していたとされています。

その他3

「再建尉殿大権現拝殿棟板」嘉永7年(1854年)
「再建尉殿大権現拝殿棟板」嘉永7年(1854年)