ドイツ帝国との開戦奉告祭祝詞

文中に具体的な祭典斎行の日付は記載されていませんが、「獨逸國刀戰乎開給布」とあることから、大正3年(1914年)8月23日のドイツ帝国への宣戦布告直後に祝詞が奏上されたものと推察されます。
祝詞の前半では、ドイツとの開戦に至る経緯が記述されています。「懇切爾事議志米給比志母其効無久」、「甚母遺憾伎極那礼抒」とあるように、日本は努力の甲斐なく、やむを得ず開戦に至った旨が説明されています。
後半では、国民の安寧、東アジアの平和が祈願されています。
日独戦役祝詞

この祝詞は、大正3年(1914年)、第一次世界大戦における日独戦役の際に奏上されたものと推察されます。同年8月23日、日本は連合国の一員としてドイツ帝国に対し宣戦布告を行いました。
文中にある「堅伎要塞」は青島要塞を、「巖伎軍艦」はドイツ帝国東洋艦隊を指しています。祝詞の後半では、田無から出征した氏子たちの生命の安全、ならびに無事帰還が祈念されています。
日独戦争平和祈願祭

祝詞の表面には、大正9年(1920年)9月9日に記したとあります。日独戦争は第一次世界大戦中の大正3年(1914年)に始まり、4年後の大正7年(1918年)に終結しました。
祝詞文中にある「五年乃永伎年月」とは、大正8年(1919年)にヴェルサイユ条約が締結されたことにより、正式な終戦とされたことを意味しているものと思われます。この祝詞は、その翌年にあたる大正9年(1920年)に、戦後の世界各国の安定を神々に報告し、永きにわたる平和の実現を祈願したものです。
帝都復興記念祭詞

大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災により、東京は市内の3分の2が焦土と化すという壊滅的な被害を受けました。その後の復興を記念して、昭和5年(1930年)3月26日に「帝都復興式典」および「帝都復興完成祝賀会」が開催されました。
帝都復興式典は二重橋前広場で行われ、招待者と一般参列者を合わせて、約5万8,300人が参列したといわれています。
祝詞文中には「鳳輦呼進米給比弖詳細爾見曾奈波志」とあり、昭和天皇が行幸された様子がうかがえます。昭和天皇は、主に下町地域を中心に、約4時間半をかけて復興の現状をご視察されたと伝えられています。
また、祝詞文中にある「復興局東京府東京市」という表記からも、震災直後に設置された「帝都復興院」の流れをくむ復興局が、内務省の部局として機能していたことがわかります。
平和克復祈願祭祝詞案

大正7年(1918年)、日本は連合国の一員として、ロシア革命に対する干渉戦争の一環としてシベリア出兵を行いました。
大正3年(1914)の青島の戦いでの戦勝に触れつつ、なおも世界各地で戦いが続いていることを憂い、シベリアに出征する兵士たちの安全を願うとともに、平和の回復を祈願しています。
奉告祭祝詞案

これは、大正13年(1924年)の祝詞案です。文中に「今年七月一日刀云布日爾…」とあるのは、同日にアメリカ合衆国で施行された、いわゆる排日移民法(ジョンソン=リード法)を指しています。
この祝詞案では、移民が規制されたことについて、「人乃道爾戻里(中略)道無久禮無伎爲業」と述べ、不当であると訴えています。
青島の戦い風刺画
こちらは、大正4年(1915年)1月1日に、時事新報社(現・産経新聞社)の発行する『時事新報』の付録として発行されたものだと思われます。
日本軍人(左の立像)とイギリス軍人(右の立像)の人形の前に、倒れたドイツ軍人の人形が描かれています。また、左下には退却するドイツ軍人の左半身が描かれています。
大日本帝国は第一次世界大戦において、ドイツ帝国に宣戦布告し、イギリス帝国やアメリカ合衆国を中心とする連合国側として参戦しました。日本軍はドイツに宣戦布告し、イギリス軍と共同で、当時ドイツの租借地であった青島の拠点を攻撃しました。この戦闘は大正3年(1914年)10月31日から11月7日まで行われ、日本・イギリス連合軍が勝利を収めました。
「勝つた!勝つた!」というフレーズからも、当時の戦勝を祝う世情が伺えます。この一面は、そうした時代背景を伝える貴重な資料といえるでしょう。







