境内に所在する石造物のうち、11点を写真と併せて紹介いたします。昭和末期から平成初期にかけて境内で実施された大規模整備工事により、多数の石造物が移設されました。そのため、田無市立中央図書館編集・発行の『田無神社(2)』(1)に掲載されている田無神社配置図と、現在の石造物配置とでは大幅に異なります。なお、最新の田無神社配置図については、今後境内に宝物殿を建設する計画があり、それに伴いさらなる石造物の移動が想定されることから、適切な時期を見計らって発表する予定です。なお、石造物に刻まれた文字に関する詳細については、『田無神社(2)』をご参照ください。

下田本家石挽臼

参集殿中庭に所在する石挽臼は、昭和40年(1965年)に下田家の大水車小屋解体時に田無神社へ奉納されたものです。現在は、井戸水が流れ込む鉢としての役割を担っていますが、かつては水車に付属する挽臼として使用されていました。

下田家の水車は「本家の水車」と称され、文化5年(1808年)に精白および製粉用の水車として設置されました。田無用水に設置された旧下田家の大水車小屋が有する歴史的価値は広く知られていますが、この石挽臼は、そのほとんど唯一の遺物といえます。

下田本家石挽臼
下田本家石挽臼

安政の燈籠

境内東側の鳥居脇に所在する燈籠には、安政4年(1857年)に築造された旨が刻まれています。元来、この燈籠は境内中程の神橋手前(現在の授与所付近)に設置されていました。

『田無神社(2)』の56頁(1)に掲載されている燈籠の挿絵には、胴部に「奉燈」「村内安全」「天下泰平」の文字が確認できます。しかしながら、現在の胴部は新しいものに交換されています。石材店の記録によれば、胴部の損傷が著しく、石積みを支えることが困難になったため、平成初期に交換されたとのことです。

安政の燈籠
安政の燈籠

北参道の鳥居

北参道の鳥居は、氏子らの奉納により、昭和45年(1970年)9月に建立されました。この鳥居は、一の鳥居とともに、平成23年(2011年)に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の揺れに耐え抜きました。鳥居の笠木には修復の痕跡が認められますが、これは造園業者のクレーンが衝突し、損壊したことによるものです。

北参道の鳥居
北参道の鳥居

御庭 銘 和敬清寂

田無神社の筆頭総代であった海老澤孫次氏は、平成22年(2010年)、宮中新嘗祭へ御粟を奉納する栄誉に浴したことを記念し、参集殿前に御庭を奉納しました。

その翌年、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の復興を祈念して、茶道裏千家大宗匠・鵬雲斎千玄室氏により「和敬清寂」の碑文が奉納されました。この石碑の奉納は、西東京市茶道華道文化協会および同協会初代会長・折元宗和氏によるものです。

御庭 銘 和敬清寂
御庭 銘 和敬清寂

国旗掲揚台

田無神社は、平成23年(2011年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震により、甚大な被害を受けました。二の鳥居および西参道鳥居の倒壊をはじめ、本殿とその基壇との間にずれが生じ、さらに拝殿と覆殿の屋根の一部が損壊、拝殿と幣殿の彫刻にも破損が見られるなど、東京都に鎮座する神社の中で最大級の被害を受けたと言っても過言ではありません。

その後、東京都、公益財団法人文化財保護芸術研究助成財団、西東京市のご指導およびご援助を賜りながら、大規模な復旧工事が実施されました。

平成25年(2013年)7月27日に斎行された工事竣工本遷座祭は、龍神に相応しく、突然の豪雨と雷鳴が響き渡る夜に、厳粛に執り行われました。その後、竣工を記念して、この国旗掲揚台が宮司らにより奉納されました。

国旗掲揚台
国旗掲揚台

狛犬(大)

田無神社に鎮座する最大級の狛犬は、大正7年(1918年)に寄進されました。酸性雨による劣化の懸念から、平成初期には、雨の影響を受けにくい神輿庫の軒先へ遷座されました。

その後、平成28年(2016年)の専門家による調査において、酸性雨の影響が減少傾向にあると判断されたことを契機に、平成29年(2017年)5月、元の場所へ戻されました。

狛犬(大)
狛犬(大)

狛犬(中)

昭和4年(1929年)に寄進されたこの狛犬は、酸性雨による劣化が懸念されたため、狛犬(大)の移設と同時期に、雨の影響を受けにくい拝殿軒下へ遷座されました。専門家による酸性雨の影響が減少傾向にあるとの報告を受け、平成31年(2019年)3月に現在の場所に戻されました。

狛犬(中)
狛犬(中)

農地改革記念碑

農地改革は、地主制の解体を目的として、第二次世界大戦後にGHQの指令により実施されました。これにより、地主の下で小作料を納めながら農業に従事していた人々が、自ら土地を所有し、農業を営むことが可能となりました。

碑文の表面には田無町農地委員会構成員の氏名が、裏面には東京都多摩郡田無町農地改革協賛会構成員の氏名が刻まれています。この碑文は、田無町における農地改革の特徴を今日に伝える数少ない記録の一つです。

農地改革記念碑
農地改革記念碑

供養塔

田無神社表参道入口の「一の鳥居」をくぐり、石段を登ると、すぐ右側に、四角錐に削られた碑刻が台石の上に設置されています。

当時、水資源に乏しかった田無村では、用水を確保するため、玉川上水の小川新田(小平市)から取水し、村まで引き込む用水路を江戸時代前期に掘削しました。これが「田無用水」です。田無用水は村の中心部を貫流するように流れ、飲料水および畑の灌漑用水として村を潤し、神社境内を横断した後、現在の石神井川へと放流されていました。

この供養塔は、かつて境内に存在した石段および用水に架けられた石橋の安寧を祈念すると同時に、邪気の侵入を防止する祈りを込めて、文政10年(1827年)に建立されたものです。正面題字および側面銘文の書には落款は刻されていませんが、総持寺に現存する賀陽玄雪書の代表的な碑刻「大施餓鬼供養塔」の書風と同一であり、筆致は極めて強く躍動的で、まるで仁王が目を剥き出して睨みつけるかのような筆使いで邪気を払おうとする迫力に満ちています。

線のフォルムは、玄雪の草書大字における一つの境地を存分に発揮しており、ひときわ異彩を放つ刻書であると言えます。(2)

供養塔
供養塔

旧石盥

田無神社北参道入口には、かつて手水鉢として使用されていた石盥が納められています。この石盥は、江戸時代の名主である下田半兵衛富宅が、弘化2年(1845年)に奉納したものです。奉納以来、昭和57年に手水舎から撤去されるまでの137年間、境内において清水を湛え、田無およびその周辺の村々に居住する人々の心の拠り所として、氏神と共に人々の願いと感謝の念を受け止めながら、その歴史を歩んできました。

石盥の正面には、三つ巴の紋所と、隷書による「奉献」の浮彫が施されています。使用された石材は、上質かつ堅牢な本小松石であり、正面の「奉献」の二文字は、同石材に施された彫刻としては稀に見る、極めて精緻な浮彫で刻まれています。

また、石盥の裏面には、「下田半兵衛富宅謹誌」と記された漢文の銘文が、若干の大小はあるものの縦横約3センチメートルの細字で、全108文字にわたり、格調高い楷書体で刻されています。銘文の揮毫者名は刻まれていませんが、文字の字形および書風の特徴から、賀陽玄雪の書であると推察されます。(3)

旧石盥
旧石盥

将軍山碑

田無神社北参道入口には、かつて康楽園に所在した「将軍山碑」があります。

五日市街道の柳橋交差点から、同街道に沿って東側に広がる共同墓地にかけての広大な敷地は、かつて平井家の所有であり、広大な梅林および桜林が設けられ、明治後期には「康楽園」という大規模な庭園が存在していました。この敷地内には池と国香神社も建立されていたとされ、当時の当主は保谷村長を務めた平井週作でした。

『保谷市郷土史研究会々報・けやき』(4)によれば、閑院宮載仁親王が小金井桜の観桜に訪れた際、道中でその美しい庭園が目に留まり、立ち寄られたと伝えられています。その際、当主が築山の命名を懇願したところ、親王により「将軍山」と揮毫されたとされています。

書風は穏やかな王羲之風であり、「將」と「山」は行書、「軍」は草書で揮毫されています。特に「山」字は、王羲之の「蘭亭序」に見られる「山」の字形および筆脈と近似しており、中国の法帖の書をよく学ばれた優雅な書であるといえます。

康楽園は、当時「保谷八景」の一つに数えられた名所でした。園内には築山があり、小川が流れ、広大な敷地に梅と桜の木が千数百本も植えられていたとされます。「東の方に大きな池があり、池には波紋ができるほど多くの鯉が泳ぎ、鯉が水面から飛び跳ねた。梅花の時期には芳香を放ち、桜の花は空を覆い隠すほど咲き乱れ、五月には菖蒲の花が水辺に紫の絨毯を敷き詰め、夏には蓮の花が見事に咲き誇り、渡り鳥も時を忘れて飛来した」と記録されています。

庭の築山から眺望する富士山は、まるで絵巻物を鑑賞するかのようであったとも伝えられています。

この築山を閑院宮が「将軍山」と命名し、その揮毫を平井週作が明治45年5月に碑石に刻し、園内に建立したものです。「将軍山碑」は、保谷と小金井桜を結ぶ歴史資料として、また親王直筆の刻書による「将軍山」の存在を伝える資料として、さらに、現在では幻となった「康楽園」の存在を今に語り継ぐ極めて貴重なものであるといえます。(5)

将軍山碑
将軍山碑

(1)田無市立中央図書館(1985)『田無神社(2)』とおび社

(2)廣瀨裕之『田無神社の碑刻銘文選』pp.215-216(賀陽智之(2022)『御遷座三五〇年記念誌 写真と資料から見る田無神社』所収)

(3)廣瀨裕之『田無神社の碑刻銘文選』pp.216-221(賀陽智之(2022)『御遷座三五〇年記念誌 写真と資料から見る田無神社』所収)

(4)保谷市郷友会編集『保谷の歴史』(上) 昭和50年9月

(5)廣瀨裕之『田無神社の碑刻銘文選』pp.224-226(賀陽智之(2022)『御遷座三五〇年記念誌 写真と資料から見る田無神社』所収)