社家 賀陽家について

賀陽家について述べるにあたり、まず紹介すべきは『胃嚢録』(1)の存在です。『胃嚢録』は、嘉永5年(1852年)に賀陽玄雪によって編纂された書物であり、和紙約150ページにわたり、「六諭衍義」「六諭衍義大意」「内宮外宮辨」「新田大明神略縁起」「おあん物語」「童蒙みちびき草」「三哲小伝序」「玉鉾百首」「籌海私議」の九巻が収録されています。木山硯夫氏を中心とする西東京古文書研究会の会員らの手により、京都大学の富士川文庫に保管されていた『胃嚢録』が解読・翻刻され、平成22年(2010年)に書籍として刊行されました。これにより、幕末期に医師として生きた賀陽玄雪が、田無の人々の健康や教育のために尽力していた姿を知ることができるようになりました。

江戸時代後期、名主の下田家は、武蔵野の村落において中心的な指導者となり、製粉や養蚕などの産業を興し、飢饉に備えて稗倉を建設し、養老畑の設置や医療にも貢献しました。安政5年(1858年)、下田半兵衛富宅が田無神社本殿を新たに建設した事実は、その意気込みを物語っています。この下田家の事業を支えたのが、岡山藩の侍医であった賀陽玄雪でした。

賀陽家は、岡山県岡山市北区に鎮座する吉備津神社の筆頭社家の流れを汲む家系です。

室町時代後期、吉備津神社(吉備津宮)の筆頭社家は藤井家に変わりましたが、賀陽家は祝詞、上旬、中旬、下旬の四家に分かれ、社家として同神社に奉仕していました。江戸時代後期には、四家のうち一家の女性が池田藩主に嫁ぎ、姫を出産しました。その後、藩主の命により、片伊勢東仙(のちの賀陽玄雪)がこの姫と結婚し、賀陽姓を名乗り、賀陽家中興に尽力することとなりました。東仙は、もともと備前藩侯池田家の侍医であった片伊勢家の出身で、備前藩主池田家の侍医を文政2年(1819年)に辞し、30代で医師(漢方医)として諸国修行の旅に出ました。

文政6年(1823年)、田無に立ち寄った際、下田半兵衛富永から医師として留まることを望まれ、名主譜代の待遇で田無村の村医となりました。その際、下田半兵衛富永は、玄雪に本宅と別棟および土地を提供しています。どのような治療を行っていたかについての資料は残されていませんが、下田家所蔵の文書『嘉永五年十一月医師引受け世話に付覚書』によれば、下田半兵衛富永が玄雪のために基金を設け、その利子で村方百姓医師として活動できるようにしたことがわかります。

玄雪は「賀陽」を名乗りましたが、家紋は片伊勢家の「剣違い」を使用し、墓や祖霊社には代々の片伊勢家の位牌が祀られています。玄雪が田無に立ち寄る前年に生まれた玄順(賀陽濟)は、母に抱かれ、祖母とともに、お付きの女中を伴って備前岡山から田無へ移住し、永住することとなりました。

賀陽濟は、江戸の昌平坂学問所(昌平黌)に入学し、安井息軒に師事して漢学や書道を学びました。その後、西洋医学や蘭学を学ぶため長崎に留学しました。田無に戻った濟は、賀陽家屋敷に手習所を開き、農村の子女たちの教育に尽力しました。明治初期に真誠学舎が設立されるまで、田無の子どもたちは、賀陽濟の手習所や、玉井寛海が教える向台のえんま堂、持宝院の塾で学びました。賀陽濟は「昨烏庵丹雪」(俳号)を号し、多くの句を残しました。生前、彼の生徒たち(筆子)によって「昨烏庵賀陽夢香居士碑」が総持寺境内に建立されました。また、能書家としても名声があり、その筆跡は田無近郊で広く見られます。「施餓鬼供養塔」「小金井桜順道絵図」「地租改正の際の大地図」「稗倉の安井息軒撰文の碑文」、さらに「撃剣家並木先生の墓」や「田無神社供養塔」などが著名です。明治5年(1872年)、政府より神仏判然の布告が出され、尉殿権現社は田無神社と改称され、賀陽濟は初代社掌(宮司)に任命されました。賀陽玄雪邸は、参道入り口の西側(現在のJ:COMコール田無)にあり、母屋は手習所や集会所、離れは医院(診療所)として使用されていました。

賀陽玄雪邸と離れ(医院)の復元図
賀陽玄雪邸と離れ(医院)の復元図

この図は、現存しない賀陽玄雪邸およびその離れの復元図です。

賀陽玄雪邸および離れが所在していた場所には、現在、J:COMコール田無が建設されています。離れには地下室があり、薬の保管所として使用されていたことが判明していることから、この場所が医院(診療所)として利用されていたものと推察されます。

「昨烏庵」
「昨烏庵」

賀陽濟は、昨烏庵丹雪(俳号)と号し、多数の句を遺しました。この書は、賀陽玄雪邸横の離れ(医院)に収蔵されていました。左側には「賀陽国手の處て癒し亭 夜雪金羅」と記されております。国手とは「名医」を意味し、夜雪金羅とは近藤金羅のことです。近藤金羅は宗匠俳句(旧派)を継承し、活躍した人物でした。

(1)西東京古文書研究会 木山硯夫(2010)『胃嚢録』サンセイ