我武維揚の額

我武維揚の額

我武維揚わがぶこれあがりて」は、五経の一つである『書経』の「泰誓中」に典拠を有し、威厳に満ち、奮起して向上していく様を指す語です。明治15年(1882年)、明治天皇が軍人に下賜した「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭(軍人勅諭)」においても、「我武維揚りて其榮を耀さば朕汝等と其譽を偕にすべし」と記されており、当時の軍人・兵士にとって馴染み深い言葉でありました。

台湾澎湖島帰還額

台湾澎湖島帰還額

「澎湖の瘴風臺島乃陣百万死に一生を得たるを感謝す陸軍歩兵 福島久蔵 明治三十一年二月出陣 記念日」
田無神社拝殿に掲げられている台湾・澎湖島帰還額には、「瘴風臺」と記されています。「瘴」とは熱気を意味し、漢字の意味から推察するに、コレラを指している可能性が考えられます。板碑には明治31年(1898年)出陣と記されていますが、澎湖島での戦いは明治28年(1895年)でした。年代のずれについては詳細不明ですが、澎湖島におけるその後の戦役を指している可能性も考えられます。

大本営広島移転奉告祝詞

この祝詞は、日清戦争中、大本営が宮中から広島城内に移転したことを奉告するものです。兵站の要衝である広島には、明治27年(1894年)9月13日に大本営が移転し、その2日後の9月15日に明治天皇が移御されました。祝詞の記述によれば、祭儀は9月15日に斎行されたとあり、明治天皇の移御と同日に斎行されたことがわかります。
文中にある「今年明治廿七年六月乃頃與里朝鮮国尓事起天」とは、日清戦争開戦の契機となった甲午農民戦争に端を発する朝鮮半島の混乱を指しています。

日露戦役記念碑

日露戦役記念碑

日露戦争における戦勝を記念し、明治40年(1907年)、教育者である刑部真琴によってこの碑が建立されました。碑に刻まれた文字は、日露戦争において元帥陸軍大将として満州軍総司令官を務めた大山巌による揮毫です。日露戦争では、田無村から71名が出征し、うち3名が戦死、68名が凱旋帰国しました。出征者71名のうち、70名は陸軍、1名は海軍に所属していました。碑の裏面には、出征者の氏名が田無小学校初代校長・刑部真琴の発案により刻まれ、その消息が今日に伝えられています。
また、刑部真琴は、西東京市鎮座の阿波洲神社拝殿に掲げられている凱旋記念扁額にも、保谷出身の従軍軍人の氏名を刻んでいます。
大山巌は、元帥陸軍大将であり、元老、貴族院議員も歴任しました。日露戦争においては、満州軍総司令官として日本の勝利に大きく貢献しました。

砲弾

砲弾

日露戦争における戦利品として持ち帰られた砲弾であり、信管は取り外され、日露戦役記念碑前に納められております。
裏面 海軍三等 信號兵曹 新井福麿
側面 明治41年12月1日建

臨時大祭執行の標札

この標札は、明治37年(1904年)の日露戦争開戦に際して斎行された臨時大祭において掲示されたものです。田無神社では、2月15日より3日間にわたり、この標札が社殿に掲示され、臨時大祭が斎行されました。

日露戦争終戦奉告祭祝詞

日露戦争終戦奉告祭祝詞

明治38年(1905年)9月5日以降に祭典が斎行され、祝詞が奏上されたものと推察されます。文中の「去年乃二月乃十日止言布尓奈毛戦乎開支給布」は、日露戦争の開戦を指し示しています。また、「米国乃大統領乃公文尓与里圖良受毛講和乃事」は、セオドア・ルーズベルト大統領の仲介によるポーツマス条約を指しています。この祝詞は、出征していた田無の氏子たちの帰還を御神前に感謝申し上げる内容となっています。

戦利兵器奉納の記

戦利兵器奉納の記

ここでいう戦利兵器とは、日露戦役記念碑前に納められている砲弾を指します。この砲弾は、明治41年(1908年)12月1日、信號兵曹であった新井福麿氏により、戦利品として持ち帰られ、奉納されたものです。
寺内正毅は、元帥陸軍大将であり、陸軍大臣や内閣総理大臣などを歴任した人物です。明治34年(1901年)には、第一次桂内閣において陸軍大臣に就任し、軍政を担いながら日露戦争の勝利に尽力しました。

戦没者慰霊祭詞

昭和12年(1937年)に日中戦争が勃発しました。これは、その年の9月8日に田無町から出征され、戦死されたS・T氏およびH・K氏の慰霊祭において奏上された祝詞で、当時の田無神社社掌(宮司)であった賀陽賢司により作文されたものです。
祝詞の中で、開戦の発端となった7月7日の盧溝橋事件に言及し、戦場となった上海・南京・徐州・漢口・広東・海南島などの地名を挙げています。また、国民歌謡『海ゆかば』の一節「海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ」や、明治天皇の御製「事しあらば 水にも火にも入らばやと 思はやがて大和魂」が引用され、戦没者の功績を称え、その死を悼む心情が丁寧に綴られています。
さらに、祝詞の後半には、この慰霊祭に田無町長をはじめ、地元住民が参列されていたことが記されております。なお、当時の田無町長は昭和10年(1935年)に45歳で町長に就任された下田正一氏です。

關國運發展聖詔捧讀式祭典祝詞案

明治41年(1908年)10月13日に詔書が渙発されました。同年が戊申(つちのえさる)年であったことから、「戊申詔書」と呼ばれています。
国民に対して一致団結して努力するよう呼びかけたものであり、教育勅語と並ぶほど国民に強い影響を及ぼしました。
渙発後、日本各地の役場や学校などで奉読会が開かれ、本祝詞案は、神社において奉読式祭典を執り行う際の参考として示されたものと考えられます。

徴兵適齢御届

徴兵適齢御届※個人情報部分を伏せています。
※個人情報部分を伏せています。

この届出は、明治23年(1890年)、息子が徴兵適齢に達したことを行政に申告したものです。
徴兵制度は、明治22年(1889年)に発布された「大日本帝国憲法」において、「日本臣民は、法律の定むる所に従い兵役の義務を有す」と規定されました。これに基づき、満20歳に達した男子が抽選によって選抜され、原則として3年間の兵役に服することとなっていました。

日清戦争壹圓献納

日清戦争壹圓献納

これらは、日清戦争の軍資への献金に対する褒状です。当時の田無神社社掌(宮司)賀陽尚賢が壹圓を寄付したことがわかります。この褒状は、明治30年(1900年)6月1日付けで賞勲局より交付されました。