大本営広島移転奉告祝詞

この祝詞は、日清戦争中、大本営が宮中から広島城内に移転したことを奉告するものです。兵站の要衝である広島には、明治27年(1894年)9月13日に大本営が移転し、その2日後の9月15日に明治天皇が移御されました。祝詞の記述によれば、祭儀は9月15日に斎行されたとあり、明治天皇の移御と同日に斎行されたことがわかります。
文中にある「今年明治廿七年六月乃頃與里朝鮮国尓事起天」とは、日清戦争開戦の契機となった甲午農民戦争に端を発する朝鮮半島の混乱を指しています。
日露戦役記念碑
日露戦争における戦勝を記念し、明治40年(1907年)、教育者である刑部真琴によってこの碑が建立されました。碑に刻まれた文字は、日露戦争において元帥陸軍大将として満州軍総司令官を務めた大山巌による揮毫です。日露戦争では、田無村から71名が出征し、うち3名が戦死、68名が凱旋帰国しました。出征者71名のうち、70名は陸軍、1名は海軍に所属していました。碑の裏面には、出征者の氏名が田無小学校初代校長・刑部真琴の発案により刻まれ、その消息が今日に伝えられています。
また、刑部真琴は、西東京市鎮座の阿波洲神社拝殿に掲げられている凱旋記念扁額にも、保谷出身の従軍軍人の氏名を刻んでいます。
大山巌は、元帥陸軍大将であり、元老、貴族院議員も歴任しました。日露戦争においては、満州軍総司令官として日本の勝利に大きく貢献しました。
戦没者慰霊祭詞

昭和12年(1937年)に日中戦争が勃発しました。これは、その年の9月8日に田無町から出征され、戦死されたS・T氏およびH・K氏の慰霊祭において奏上された祝詞で、当時の田無神社社掌(宮司)であった賀陽賢司により作文されたものです。
祝詞の中で、開戦の発端となった7月7日の盧溝橋事件に言及し、戦場となった上海・南京・徐州・漢口・広東・海南島などの地名を挙げています。また、国民歌謡『海ゆかば』の一節「海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ」や、明治天皇の御製「事しあらば 水にも火にも入らばやと 思はやがて大和魂」が引用され、戦没者の功績を称え、その死を悼む心情が丁寧に綴られています。
さらに、祝詞の後半には、この慰霊祭に田無町長をはじめ、地元住民が参列されていたことが記されております。なお、当時の田無町長は昭和10年(1935年)に45歳で町長に就任された下田正一氏です。
關國運發展聖詔捧讀式祭典祝詞案

明治41年(1908年)10月13日に詔書が渙発されました。同年が戊申(つちのえさる)年であったことから、「戊申詔書」と呼ばれています。
国民に対して一致団結して努力するよう呼びかけたものであり、教育勅語と並ぶほど国民に強い影響を及ぼしました。
渙発後、日本各地の役場や学校などで奉読会が開かれ、本祝詞案は、神社において奉読式祭典を執り行う際の参考として示されたものと考えられます。















