賀陽家屋敷稲荷神社

文政6年(1823)に備前岡山藩池田家の侍医賀陽玄節(玄雪)が諸国修行の途中に田無の地に立ち寄りました。
当時田無周辺には医者がおらず、困っていた名主・下田半兵衛富永は、玄節に田無の地に留まり医療に従事してほしいと依頼しました。
これを受けて玄節は岡山より家族を呼び寄せ、田無の地にて村医として永住することになりました。
その子、賀陽濟(玄順)も医師を志し、江戸昌平坂学問所で安井息軒に学び、その後長崎まで遊学し西洋医学も修めました。
濟は手習所を開き多くの子供たちを指導した他、能書家としても知られ、その筆跡は市内各所で見られます。
後に濟は田無神社初代宮司となり、以来、賀陽家が代々宮司を継いでおります。

賀陽家屋敷稲荷神社