「創立」
田無神社の創立は遠く不祥です。本宮はすでに正応年間(建長年間説もありますが、いずれも13世紀、鎌倉期)には鎌倉街道(保谷・田無を貫く現在の横山 道)沿いの谷戸(※1)の宮山に鎮座し、尉殿大権現(尉殿権現社)と呼ばれていました。尉殿大権現は龍神で、水と風を治める豊饒の神々(男神の級長津彦命 と女神の級長戸辺命)です。同時に神仏習合の考えのもとに尉殿大権現は不動明王としても信仰されてきました。人々が武蔵野台地に位置するこの地で生きるに 際して、とりわけ水を得ることがいかに大切であったかを、その信仰の姿から伺うことができます。尉殿大権現の尉(ジョウ)とは本来、水を守る神を意味して いるのです。
※1)谷戸とは田無北部の水の豊かな地域の地名

「宮山からの遷座」
時代は下がり徳川家康が江戸幕府を開くにおよび、大量の石灰(城や町の壁の材料)が青梅から運び出され、青梅街道(同時、江戸道)の往来が盛んになりまし た。幕府直轄領であったこの地の人々は幕府の政策に従い、水の豊かな谷戸周辺から水に恵まれぬ青梅街道沿いに移り住み、宿場町を形成しました、室町期まで は鎌倉街道を中心に村落が形成されていましたが、江戸期になると青梅街道が主たる導線となり、この地の人々は青梅街道を中心に村落を形成していったので す。しかし、移り住んだ直後は生活用水にさえ困り、人々は谷戸まで水を汲みに行く生活を余儀なくされました。このような状況は、元禄9年(1696年)に 田無用水が玉川上水から分水されるまで続いたようです。田無神社本殿の正面には湧き水から水を汲む図が彫られていますが、谷戸から移り住んだ祖先の苦労へ のねぎらいと、本体は水の守り神である尉殿大権現への篤い信仰をそこに見ることができます。
 さて、このような歴史の中で、人々は宮山に鎮座する尉殿大権現を、まず元和8年(1622年)に上保谷に分祀(※2)(現在の尉殿神社)しました。つづ いて正保3年(1646年)に宮山から田無(現在の地)に分祀しました。その際に、上保谷の尉殿大権現から男神の級長津彦命を田無に遷座(※3)すること で、田無と神保谷の尉殿大権現を夫婦神として位置付けました。そして寛文10年(1670年)には宮山に鋸っていた尉殿大権現の本宮そのものを田無に遷座 したのです。その時(1646年あるいは1670年)に建てられた本殿は田無神社境内に残っており、現在は野分初稲荷が祀られています。
※2)分祀とは、本社と同じ祭神を別の地に祀り、分社をつくること。
※3)遷座とは、社に祀られている祭神をそっくり別の地に映して、新たに祀ること。

「宿場町田無の隆盛と本殿造営」
江戸後期になると田無は単に宿場としてではなく、産業、医療、福祉、文化の栄える町として大きく発展しました、とりわけ、三代にわたる名主下田半兵衛(富 永、富宅、富潤)の貢献には特記すべきものがあります。下田半兵衛は、徳川御三卿の一橋家に出入りし、製粉、養蚕等の産業をおこし、賀陽玄雪(池田藩侍 医、書家)玄順(玄雪の子、医師、教育者、書家、俳人)をブレインとして、医療(無医村の解消)福祉(稗倉の設置、養老畑の設営等)事業に大きく貢献する ばかりか、文化事業にも力を入れました。このように田無が最大の隆盛を迎えた時期、二代下田半兵衛(富宅)は賀陽玄順の助言を得て、安政5年(1858 年)に江戸より名工の誉れ高い嶋村俊表を招き本殿を再建したのです。

「明治期以降の歩み」
さらに尉殿大権現は明治5年(1872年)に熊野神社、八幡神社を合祀し、田無神社と社名を改めました。その際に、大国主命を主祭神として、尉殿大権現 (男神の級長津彦命と女神の級長戸辺命)、須佐之男命、猿田彦命、八街比古命、八街比売命、日本武尊命、大鳥大神、応神天皇をはじめとしてすべての神々を 祀り現在に至っています。


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