田無神社で七五三プラン

田無神社

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田無神社と宿場町

江戸時代の初め、慶長11~12年(1606〜1607)の江戸城増改築にともない、漆喰の原材料である石灰が大量に必要となり、青梅の地で石灰が産出したため江戸まで運搬する道として青梅街道が開かれました。その際に、宿場町をつくるために幕府の命令により谷戸に住んでいた人々が現在の田無の地に移り住みました。これは田無の地が江戸と青梅のほぼ中間にあたり、所沢街道や志木街道も通る交通上の重要な地であったためと考えられます。こうして宿場町としての田無の町の歴史が始まりました。武蔵野台地に位置する田無は水に乏しかったため生活用水にさえ困り、住人たちは谷戸まで水をくみに行く生活を余儀なくされました。そのような環境の中、元禄9年(1696)に田無用水が玉川上水から分水されましたが、これは玉川上水開通から43年後の事であり住人たちの長きに渡る苦労が伝わります。田無神社の本殿の正面には、湧き水から水を汲む図が彫られています。この彫刻からも、谷戸から移り住んだ祖先の苦労へのねぎらいと、本来は水の守り神である尉殿大権現への厚い信仰をみる事が出来ます。

宮山について

谷戸の宮山とは田無神社の旧称である尉殿大権現の元来の鎮座地です。現在の谷戸地区は、旧田無市と旧保谷市の境界が入り組んでいる地域を指します。谷戸の地は水が豊富であり、13世紀・鎌倉時代初期より水を司る神様が祀られていたといわれております。当初は北谷戸に尉殿大権現と称して鎮座していましたが、16世紀のはじめ頃に宮山(現在の田無第二中学校のプールの辺りに)に尉殿大権現が移されました。その後、尉殿大権現は江戸時代初期に現在の青梅街道筋に遷座されます。宮山で尉殿権現と並んでご鎮座されていた西光寺は慶安年間(1648〜1651)に田無神社のとなりにある現在の総持寺の場所へ移ってきたといわれております。遷宮当時の社殿は田無神社境内にある朱色のお社(現在の野分初稲荷神社)とされております。また社伝によると、塩釜社、煩大人として現在お祀りされている一間社見世棚造の2棟のお社が、分祀以前の谷戸の尉殿大権現の宮殿とされています。

震災と復興

田無神社は平成23年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震により甚大な被害を受けました。二の鳥居(参道中央の鳥居)及び境内西側の鳥居の倒壊をはじめ、本殿とその土台となる基壇とに間にずれが生じ、さらに拝殿と覆殿の屋根の一部が損壊、また拝殿と幣殿の彫刻の破損など、東京都に鎮座する神社の中で最大の被害を受けたといっても過言ではございません。その後、東京都、公益財団法人文化財保護芸術研究助成財団、西東京市のご指導、ご援助をいただきながら、大掛かりな復旧工事ならびに将来の震災に備えた防災工事を進めてまいりました。また、平成25年7月27日斎行の本遷座祭は龍神に相応しく雨が降りしきり、雷が鳴り響く夜に、厳粛に斎行され、御霊が本殿へと戻りました。

平成24年 6月30日 本殿改修工事開始のため神輿庫にて仮遷座祭斎行
平成24年 7月 1日 本殿改修工事が着工
平成25年 5月29日 本殿玉垣改修工事竣工
平成25年 6月30日 本殿改修工事竣工
平成25年 7月27日 本殿改修工事竣工に伴い幣殿にて本遷座祭斎行 及び記念として国旗掲揚台が奉納される
平成28年 6月   筆頭総代村田利夫氏の御奉納により西側の鳥居が新たに冠木門として再建
平成28年11月   氏子・崇敬社の御奉納により二の鳥居が再建

防犯対策について

田無神社は夜間でもご参拝いただける開かれた神社であるので、防犯対策に特に力を注いでおります。録画機能搭載の超高性能防犯カメラ、人感サーチライト、防犯ブザー、自動警報システムなどの設置、常時二人体制での夜間の見回りを行っています。
夜間においても皆様方に安心してお参り頂ける環境づくりに取り組んでまいります。不審者や不審物を見つけた場合、社務所までご連絡下さい。

田無神社・本殿

賀陽玄雪

賀陽玄雪は、岡山藩池田家の侍医・片伊勢家に、寛文2年(1790)に生まれ、片伊勢東仙、または文煥と称しました。後に片伊勢東仙は、賀陽玄雪と名を改めますが、その経緯は、吉備津彦神社の社家・賀陽家の女性が池田藩主に嫁ぎ娘を生み、そして藩主並びに賀陽家の娘が東仙を見初め、自分たちの間に生まれた娘の婿養子に迎え賀陽家を継承させたためです。文政5年(1822)、妻子を岡山に残し片伊勢東仙は江戸に医学の修業に旅立ちました。その年のうちのある日、各地を巡っていた玄雪は田無村に入り名主・下田半兵衛富永の家に宿泊しました。
その際に急病人が出ましたが、玄雪が治療にあたったところたちまち治癒したそうです。当時の田無村には医者がおらず玄雪の医術の腕と人柄を見込んだ下田半兵衛富永は、田無の地での開業を頼み必要な費用を寄付し玄雪の医療活動を助けました。その後、岡山から妻子を呼び寄せた玄雪は嘉永7年(1854)に、65歳で死去するまで医師として住人のために尽力しました。また、玄雪は医師として優れていただけではなく、書家としても優秀でした。その書は総持寺山門の「大施餓鬼供養塔の碑」、小金井市関野橋の「桜樹接種記の碑」、田無小学校の「養老畑碑」に残されております。

■参考文献
・胃嚢録の解題と翻刻 西東京古文書研究会 2010
・田無いま・むかし 田無市立図書館 1989
・田無いま・むかし6  田無市立図書館 1996

賀陽玄順

賀陽玄順(濟)は賀陽玄雪の子として文政5年(1822)に生まれました。玄順は父・玄雪より医術を学ぶとともに、江戸昌平坂学問所に入学し、儒学者・安井息軒に漢学と書道を習い、また遠く長崎まで留学し西洋医術おも治めました。父の跡を継ぎ医療に尽くしたと言われております。明治元年(1868)には自宅に手習所を開き、多くの子供たちを指導しました。この手習所こそ田無の初の学校でした。
また、父に劣らず玄順も優れた書家であり、下田半兵衛富宅の功績を称えた養老田碑(西東京市指定文化財)は安井息軒が作文し玄順が筆をとったものです。その後、明治5年(1872)に政府より神仏分離令が出されると、田無村では尉殿大権現を田無神社と改め、初代宮司に玄順が任ぜられました。この時より田無神社宮司は代々賀陽家が引き継いでおります。
玄順は、明治28年(1895)に亡くなるまで医者として神職として活躍致しました。

■参考文献
・胃嚢録の解題と翻刻 西東京古文書研究会 2010
・田無いま・むかし 田無市立図書館 1989
・田無いま・むかし6 田無市立図書館 1996

田無の地名の由来

田無の地名の由来にはいくつかの説があります。
・水が乏しく田んぼが無いため田無となった説
・田を成すが田無に変化したとし、田んぼのある土地とする説
・平らにならすが田無に変化し、平らな場所を意味するという説
・湧水が棚のように段階的に流れていたため「棚瀬」と呼ばれ、田無に変化したとする説
・年貢の取り立てが厳しく、種籾すらなかったため。種無から田無となった説
などがあり本来の意味は分かっていません。しかし、永禄2年(1559)に北条氏康によってつくられた「小田原衆所領役帳」という文献に田無の地名が見えるのが最古の記録とされておりますので、江戸時代以前より使われている歴史のある地名であることがわかります。

田無の農業と養老田碑

水の乏しかった田無には水田はほとんど見られず、住民たちは大麦、小麦、稗、粟などを栽培していました。明治時代から大正時代にかけて、諸外国との生糸貿易が盛んになると、養蚕が農業の主力となりました。蚕は「おこさま」と呼ばれ非常に大切にされました。昭和になると、政府の命令で養蚕よりも食料となる野菜が多く栽培されるようになりました。日中戦争が勃発すると軍隊用に大量の大根を作ったと言われております。田無の農業の歴史において特筆するべき事柄として名主・下田半兵衛富宅による福祉政策があげられます。嘉永7年(1854)富宅は自身の所有する土地を提供し養老畑を開きました。この養老畑で得た収入を村の70歳以上の老人に分配し生活を助けるというものです。こうした富宅の人柄や養老畑の寄進など数多くの善政を子孫に伝えるべく安政年間(1854~1859)に養老田碑が建立されました。碑文は儒学者・安井息軒が作文し揮毫は田無神社初代宮司である賀陽玄順によるものです。玄順の筆跡は田無村随一の書家の名に恥じぬ、豪快でありながらも品格の高いものであり、歴史的・文化的に貴重な物であります。また、碑文は漢文で記されているため国字(日本で作られた中国にはない漢字)である「畑」を用いず、あえて中国で生まれた「田」を使用したものと考えられます。養老田碑は昭和45年に田無市(現西東京市)指定文化財に選定されました。

田無ばやし

田無の地には元禄7年(1694)ごろから祭りばやしが伝わっており、江戸最古とされる葛西ばやしの流れを汲んでいましたが、未完成であったとされます。その後、明治末期に田無に在住であった西林源六氏が当時関東一の名人とされた世田谷船橋流の内海軍次郎氏に弟子入りして完成させたのが田無ばやしです。田無ばやしは脈々と受け継がれ、昭和40年には田無市(現西東京市)の指定文化財に登録されました。
現在は田無ばやし保存会の方々が継承され、今日におきましても、田無神社例大祭を始め折々の機会に素晴らしいおはやしを御奉納いただております。

田無小学校と刑部真琴

田無の地に最初の学校ができたのは、明治元年(1868)に医者であり田無神社初代宮司になる賀陽濟(玄順)が自宅に開いた手習所が始まりと伝わっております。近隣の子供たちを集め教育にあたったところ、次第に評判を集め一時は八王子や中野までの土地から80名以上の生徒が集まりました。明治に入り全国学校制度が導入されたため明治6年(1873)横浜より刑部真琴を教員として招聘し、「真誠学舎」が開校しました。刑部真琴は士族の子弟として武蔵野国に生まれ、漢学や書を学び、幕府陸軍附属取調役を務めたのち静岡県にて教員を務め、さらにや数学の修業をした立派な教育者でした。その2年後、明治8年(1875)に「田無学校」と改称し明治16年には、新校舎が建設され刑部真琴は初代校長に選出されました。その後、時代と共に「田無尋常高等小学校」、「田無国民学校」を経て、戦後の昭和22年に現在の名称である「田無小学校」となりました。また、田無小学校には初代校長となった刑部真琴の胸像や名主・下田半兵衛富宅の功績を称えた養老畑碑があります。養老畑碑の揮毫は田無初の学校である手習所を開いた賀陽濟(玄順)によるものです。

下田半兵衛と養老畑碑

田無の地は幕府の直轄地である天領であり、代官である名主・下田半兵衛が治めていました。「半兵衛」は下田家の歴代当主が襲名する名であり、中でも下田半兵衛富永(1779~1850)とその養子である富宅(1801~1860)が良く知られております。富永は飢饉に備えた救済用穀物を貯蔵する「稗倉」を建て、古くなった稗は貧しい人々や病人に分け与え、富宅は自分の所有する畑を「養老畑」として提供し、その収穫物から得た金銭を村の70歳以上の老人に送りました。また、二人の半兵衛は田無の地の宗教施設にも多大な影響を残しています。富永は現在の総持寺である西光寺を再建し、亡くなった後に自ら復興した西光寺に葬られました。富宅は自ら出資し、嶋村俊表を招聘し田無神社本殿を建立しました。現在では稗倉、養老畑碑はいずれも西東京市指定文化財に、田無神社本殿は東京都の東京都指定文化財に選定されております。この下田半兵衛のうち父親の富永に招かれ田無村の医者となった人物が岡山より江戸に修行に来ていた賀陽玄雪であり、その子である賀陽濟(玄順)が田無神社の初代宮司となりました。この様に優れた人物たちに恵まれた田無の地は長き年月にわたって宿場町として大いに栄えました。

田無神社の文化財

田無神社には以下の文化財がございます。
・田無神社参集殿    国登録有形文化財
・田無神社本殿・拝殿  東京都指定文化財
・獅子頭二頭      西東京市指定文化財
・大銀杏        西東京市指定文化財
また、本殿・拝殿は平成30年に東京都より「特に景観上重要な歴史的建築物等」に選定されました。本殿の素晴らしい彫刻は毎年、都の文化財ウィークと11月の酉の日に公開しております。ぜひお越しください。

田無用水

田無の地は水が乏しく、住人たちは北に1キロほど離れた谷戸の地まで、毎日水を汲みにいかなければならない不便な生活を余儀なくされていました。そのような中、承応3年(1654)に玉川上水が開ひらかれ、3年後の明暦3年(1657)に玉川上水から小川用水が分けられましたが、田無用水掘削の嘆願書が受理され田無用水が分水されたのは元禄9年(1696)であり、実に40年以上の月日がかかりました。田無用水により、多くの畑が潤い、水車を使っての製粉業も始まり、住人たちの生活は便利で豊かになりました。長きに渡り田無の住人の生活を支えた田無用水でしたが昭和40年には暗渠になり、現在ではやすらぎの小道となっております。田無神社では往時の田無用水を偲び、平成31年2月に境内の田無用水跡を龍神池と名付け、ビオトープが作られました。

尉殿とは

享保期(1716〜1736)の館村(現新座市)の古文書によると尉殿権現は水神であり、俗に十殿、ぞうとのと呼ばれると記されています。埼玉県、群馬県を中心に水や井戸、湿地や川の神様としてジュードノ様、ズードノ様、重殿様、増殿様と呼ばれる神様がお祀りされています。

石盥(せきかん)

神社には手と口を漱ぎ清めるために水をためておく手水鉢があり、このうち石製のものを石盥と言います。
現在の田無神社の手水鉢は昭和57年に奉納されたものですが、この他に弘化2年(1845)に作成され上記の手水鉢に代わる昭和57年まで140年程使用されたものが残されています。
この石盥は、田無村の名主・下田半兵衛富宅によって奉納されたもので、材料には本小松石(ほんこまついし)という神奈川県の真鶴町で産出される稀少な石が用いられ、美しい石彫も見事な美術工芸品としても大変優れたものです。また、石盥に掘られた銘文の内容は、奉納者である下田半兵衛富宅の来歴と疫病や飢饉が鎮まったことに対する神々への感謝の念が記されております。また、揮毫者名は記されておりませんが武蔵野大学教授・廣瀬裕之先生の調査によれば、文字の字形の特徴や書風などから賀陽玄雪によるものであることは間違いがないそうです。賀陽玄雪は西東京市指定文化財の養老田碑などに多くの筆跡を残す能書家であり、田無神社・初代宮司である賀陽濟(玄順)の父親です。この石盥は、美術品としての価値、田無の人々の敬神の念、賀陽玄雪の筆による芸術性など併せ持つ歴史的・文化的にも貴重な逸品であるといえます。

例大祭

平成の初期まで田無神社の例大祭は9月19日に斎行されていました。尉殿大権現が谷戸の宮山から現在地へ分祀された正保3年(1646)に祭礼が行われた記録が残されています。明治34年から、しばらくの間、田無小学校も9月19日を休校日と定め、生徒たちは羽織り、袴で田無神社を参詣したそうです。

雹祭

田無神社では毎年4月に雹祭を斎行しております。田無の位置する武蔵野台地は古くより雷や降雹の多い土地柄です。近代でも慶応3年6月と昭和10年5月の降雹による農作物への被害は、甚大なものであったと伝えられております。雹は田無の地の農家の方々の脅威となり、その災いを避けるため農家の方々が中心となり田無神社において雹祭りが斎行されるようになりました。以来、今日に至るまで豊作への祈りと感謝を捧げながら、五穀豊穣春祭・雹祭として受け継がれてまいりました。また、現在においては、あらゆる産業の発展と日本国の国力の向上も祈願しています。

雨乞いの神輿

日照りが続くと、御嶽山の七重の滝から水を汲み、一節の孟宗竹に入れ持ち帰ります。橋場でお祓いをし、田無用水の水を堰き止め、「ろっこんしょうじょう、さーんげ、さんげ」と念仏を唱えながら、水をかぶり身を清めた後に神輿を担ぎ練り歩きました。神輿を揉むことで田無用水の水をかき混ぜ、龍神を呼び雨を降らすと考えられています。その後、御嶽山で汲んだ水の半分を橋場の用水に流し、残りの半分を田無神社の裏にあった大きな杉の木にかけたり、田無神社の境内に流れていた用水に流しました。お神輿は2基ありますが、両方出すと喧嘩すると言われ、片方は担がない時期があったとされています。また、蚕の総合上がりの祭りにも出御されていました。田無神社に収納されている西東京市文化財の獅子頭を乗せる雨乞いの神輿は昭和11年もしくは昭和12年を最後に氏子に担がれていません。

野分初(やぶそめ)の伝説

室町時代の終りに谷戸に白い狐が現れました。村人たちは大変珍しがり、捕まえようという事になりました。村人は銅鑼や太鼓を叩いて追い込み、狐は段々と追い込まれます。もう少しで捕まえられるという時になると大風が吹き、嵐がやってきました。とうとう白い狐は捕まえられる事無く姿を消してしまいました。そして月日が経ち60年くらいたった頃に、再び白い狐が現れます。すると若い衆は再び捕まえよう言い出します。60年前の出来事を知っている年寄り方は止めましたが、血気盛んな若者は話を聞きません。再び狐狩りが始まりました。若い衆は包囲を段々と狭めて追い詰めると、大風が吹き、嵐がやってきました。若い衆はそれでも追い込むと狐は穴に逃げ込んでしまいました。不思議な事に穴に逃げ込んだまま数日経っても出てきません。若い衆は穴の前で待ちましたが、狐はとうとう出て来ないまま消えた様に居なくなりました。村人等は不思議がり「お稲荷様の化身じゃないだろうか?」と頭をかかえます。そして庄屋様の下田さんが江戸から神官を呼び穴の前でお稲荷様として鎮座する様に祭祀を執り行いました。祭儀が終わると、それまで晴天だったのが、急に黒い雲がもくもくと現れ風が吹き始めました。下田さんは「まだ何かご不満があるのではないでしょうか?」と神官に聞きますと「それでは正一位の位をつけたらどうでしょう。」とのお答え。穴に向かって「正一位をお付けします」と言うと風は止み黒い雲も無くなりました。『野分』とは台風の古称です。嵐を起こす稲荷様という意味で『野分初稲荷(やぶそめいなり)』と名付けられました。この穴の場所は現在の谷戸小学校の辺りだと言われています。下田家の屋敷稲荷としてお祀りされていた野分初稲荷神社の御分霊が田無神社境内末社に遷座されました。現在は本殿向かって右横に鎮座されていますが、元々は現在の東側参道のところでした。平成に入りお社の御移動と共に遷座祭を執り行いましたが、その際にも御神体の御移動の際に、急に大風が吹き、大雨が降り神職がずぶ濡れになりながら御奉仕したと伝えられています。また、野分初稲荷神社のお社は田無神社本殿が安政5年(1858)に建て替えられる以前の旧本殿とされています。東日本大地震により御本殿の土台の石垣が崩れてしまい修復したおりに、石垣の内側の土より石が1体出て来ました。現本殿建立の鎮物として埋められたこの石にうっすらと四角い木渋が付着しています。この四角形の木渋の大きさと現野分初稲荷神社の柱の大きさがほぼ一致したので、旧本殿の柱を支えていた礎石であると考えられています。現在の田無神社本殿が完成するまでの間、本殿として御霊が鎮まる田無の町の守り神だったことでしょう。

田無のならわし

■参考書籍
【田無のむかし話 座談会その1 田無の年中行事を中心に】
編集/東京都田無市 発行/市長室広報課
昭和50年12月15日発行 

【田無のならわし】

お正月と年神様

田無では大正末期まで月遅れの2月1日が元日でした。田無の人々は古くから歳神様を女性の神様として大切にしてきたので、正月の行事を女性が行うと、歳神様と喧嘩をすると言われています。3が日は年男が家で一番早く起きて若水を汲み、神棚に御神酒をあげ、雑煮を作っていました。年神様をお迎えする正月棚は青竹を細かく割り、30センチ程に揃え、神棚に飾りました。一部の農家ではお正月が終わると卯の日に取り外し、魔除けとして、自宅の屋根の上に放り投げました。

【田無のならわし】

アボヒボとマユ団子

田無の農家では五穀豊穣を願い「アボヒボ」を堆肥場や神棚に飾りました。アボヒボはニワトコの木の枝を15センチ程に切ったものを細く割った竹に突き刺し、これを5本ずつまとめたものです。蔵開きの日などに飾りましたが、20日のえびす講の日だけは避けました。えびす講の日の風に当てると穀物の収穫期が遅れ手遅れになってしまうと伝わっています。また、お正月には蚕がよくできますようにと、大きな枝の先に茹でたマユ団子やミカンを突き刺しました。マユ団子はマユに似せて作った団子で、お供えした後にご家庭で食されました。

【田無のならわし】

出初式と蔵開き

戦前までお正月に出初式が行われました。朝9時頃、田無神社に地区ごとのポンプが集合し御神酒が奉納されました。その後、「お練り」としてまといを振り、木遣い音頭を歌いながら橋場まで向かいました。提灯をポンプの数だけ並べ提灯の落としっこを行っていました。その後、組ごとに町を周り、梯子乗りを披露しました。三が日が過ぎ11日には蔵開きが行われます。11日の朝に物置の戸を開けて御神酒や鏡餅、お雑煮をお供えしました。蔵の神様を大切にし、五穀豊穣を願いました。

【田無のならわし】

えびす講と初午

田無では正月のえびす講は農家のしきたりで、11月のえびす講は商人のしきたりとされています。田無ではえびす様は旧暦の2月20日に商いに出発し、旧暦11月20日に帰って来るとされているので、お正月のえびす講を「でびす講」と呼ぶ方もいます。お供えは各家庭で異なりますが、預金通帳やお金を神棚に祀り金運向上をお祈りしたり、赤飯やスズキやブリなどの出世魚をお供えしました。初午は現在でも続けられている「ならわし」の一つですが、二の午の日に、屋敷稲荷の飾り始めをする家庭が多かったそうです。また、初午の日に自宅の屋敷稲荷の前でメザシと赤飯を食べるとその年の「稲なり」が良くなるという伝承もあります。

【田無のならわし】

焼き焦がしとひな祭り

節分には焼き焦がし(虫焦がし)を行っていました。大豆の枝にメザシの頭を突き刺して炉端で焼き、それをヒイラギの枝と一緒にしてお供えします。家の出入り口に刺し、魔除けや健康祈願、五穀豊穣を祈りました。その後、神棚や仏壇、屋敷稲荷などの前で豆まきを行います。3月3日のひな祭りも昔は月遅れの4月3日に行っていました。田無のひな市は賑やかで、青梅街道に沿いに緋もうせんが敷かれ、お雛様が並べ売られていました。道の両側にぎっしり並べられ、遠くの町から多くの方が訪れました。

【田無のならわし】

虫封じと焦がし撒き

旧暦の5月8日に紙切れに虫封じの字を逆さに書き、ウジやハエの出そうな場所に貼りました。御神酒の力で虫を成敗すると考えられています。6月5日(現在の暦では5月5日の端午の節句)に焦がし撒きが行われていました。蛇が家の中に入り悪い事をしないようにと、家の周囲に焦がしを撒き蛇の跡がわかるようしました。

【田無のならわし】

天王様と津島様

田無2区の天王様と田無1区の津島様のお祭りが7月15日に行われます。それぞれの神輿が田無神社の辺りでぶつかり喧嘩をします。当時は田無5区に八坂神社の神輿があり、石神井川を挟み3社の神輿が睨み合いました。ぶつかりあいは昭和30年頃まで行っていましたが、現在では7月15日に神輿は一基のみ出御します。

【田無のならわし】

亥の子のぼたもち

大根の豊作を願う行事として亥の子のぼたもち(大根の帯解き)が行われていました。旧暦の11月9日に、大根畑にぼたもちを一つ埋めました。もち米のぼたもちを埋めると大根が喜んで首を出すと言われています。作物が盗まれて困った時には、御嶽神社のお犬様のお札を貼り畑に突き刺しました。亥の子というのは口の裂けたお犬様のことを言います。

【田無のならわし】

荒神様と天気の占い

田無では荒神様はかまどの神様を指します。旧暦の10月31日に出雲へ行き、11月15日に中帰りし、30日(荒神様の落ち着き)に戻ってくると言われています。荒神様は36人の子供がいるとされているので、10月31日に36個の団子をお供えし、出雲へのお土産を持たせます。12月の4のつく日には大師がゆ(小豆のおかゆ)を食べました。来年の天気を12月天気で占いました。12月1日を来年の1月とし、2日を2月、3日を3月、4日を4月、次は、11日を5月、14日を8月、21日を9月、24日を12月とします。12月1日が雨だと、来年の1月は雨が多いと考えられていました。

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